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忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国
 [歴史・地理・民俗]

忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国 (講談社選書メチエ) [ 後藤 敦史 ]
 
後藤敦史/著
出版社名:講談社(講談社選書メチエ 651)
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-06-258654-2
税込価格:1,998円
頁数・縦:299p・19cm
 
 
 「黒船」ペリーと同時期に、米清の大圏航路を開拓すべく、北太平洋の測量に出発したもう一つの「黒船」艦隊の顛末を描く。
 
【目次】
序章 ペリー来航史観の陥穽
第1章 十八~十九世紀の太平洋世界
第2章 海原への「明白な天命」
第3章 わきあがる対日遠征論
第4章 もうひとつのアメリカ艦隊
第5章 ペリーの影
第6章 いよいよ日本へ
第7章 ロジャーズ来航
第8章 歴史の波間に
終章 太平洋からみる日本開国
 
【著者】
後藤 敦史 (ゴトウ アツシ)
 1982年福岡県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学。日本学術振興会特別研究員、大阪観光大学国際交流学部専任講師を経て、京都橘大学文学部准教授。博士(文学)。専攻は幕末政治・外交史。
 
【抜書】
●レディ・ワシントン号(p26)
 1791年、紀伊大島に2隻のアメリカ船、レディ・ワシントン号とグレイス号が来航した。ラッコの毛皮の交易船。歴史上初の日米交渉。
 レディ・ワシントン号の船長ジョン・ケンドリックは、コロンビア号に乗って北太平洋海域でラッコ漁をし、中国に寄港。コロンビア号の船長が裏切り、先にボストンへ帰還。
 毛皮の交易を試みるため、日本に寄港。しかし、日本で毛皮の取引はできないと知り、来意を告げないまま、10日ほどの滞在で日本を離れる。
 
●ラナルド・マクドナルド(p45)
 1848年6月、捕鯨船に乗っていたマクドナルドは、単身で利尻島へ上陸。ボートでの漂着を装って日本への上陸を試みる。
 オレゴン州生まれのマクドナルドは、母親が先住民チヌーク族のメイティ(混血民)。差別に絶望し、日本をチヌーク族の祖先の地と考え、日本行きを決意した。
 松前藩により長崎に護送され、長崎のオランダ通詞たちに英語教える。日本初の英語教師
 1849年4月、ラゴダ号の旧船員15名とともに、アメリカ東インド艦隊に所属するプレブル号にて帰国。
 
●太平洋探検隊(p51)
 1838年4月、海軍大尉チャールズ・ウィルクスを司令長官のもと、アメリカの太平洋探検隊がヴァージニア州ノーフォークを出航。42年に帰港。
 ヴィンセンス号を旗艦とし、ピーコック号、ポーパス号、シー・ガル号、フライング・フィッシュ号、リリーフ号の計6隻。アメリカが太平洋探検における遅れを取り戻すべく、国家的威信をかけて艦隊を派遣
 
●北太平洋測量艦隊(p117)
 司令長官カドワレイダー・リンゴールド。ウィルクスの探検隊にも参加。
 旗艦はヴィンセンス号……700トン、スループ船、200人乗艦。1846年、ジェームズ・ビッドルが浦賀を訪問した際に引き連れていた艦船。
 ジョン・ハンコック号……蒸気船、70人乗艦、ジョン・ロジャーズ艦長(2代目の司令長官)。
 ジョン・ケネディ号……補給艦。ニューヨークで購入された350トンの商船。40人の乗艦。
 ポーパス号……ブリッグ艦、224トン、70人乗艦。
 フェニモア・クーパー号……スクーナー艦、95トン、20人乗艦。
 1853年6月11日、ノーフォーク出航。
 1854年11月16日、ヴィンセンス号が那覇に入港。水先案内人の派遣もなく、要求した食料の提供も十分に行われなかった。ペリーが締結した琉米協約が守られていないことを知る。
 同12月28日、鹿児島湾の山川へ停泊。立ち退きを求められる。(p176)
 1855年5月13日(安政2年3月27日)、ヴィンセンス号、ハンコック号が下田入港。幕府に測量の許可を求めるが、即答を得られず、5か月後に再訪する旨を伝えて出航。幕府は、不許可の方針を出すが、ロジャーズらの再訪はなかった。(p202)
 
(2017/9/17)KG
 
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生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像
 [自然科学]

生物はウイルスが進化させた 巨大ウイルスが語る新たな生命像 (ブルーバックス) [ 武村 政春 ]
 
武村政春/著
出版社名:講談社(ブルーバックス B-2010)
出版年月:2017年4月
ISBNコード:978-4-06-502010-4
税込価格:1,058円
頁数・縦:254p・18cm
 
  
 光学顕微鏡によって「見る」ことのできる、ミミウイルスなどの巨大ウイルスが発見されて20年。
 その巨大ウイルスの特徴や、真核生物との関りなどを分かりやすく解説する。
 
【目次】
第1章 巨大ウイルスのファミリーヒストリー―彼らはどこから来たのか
 見えていなかったもの
 ミミウイルス
 壷型巨大ウイルスの衝撃
 「出身地」明記された巨大ウイルス
 巨大さと、その謎
第2章 巨大ウイルスが作る「根城」―彼らは細胞の中で何をしているのか
 ウイルスは何をしている?
 ウイルス工場の多彩な姿
 ミミウイルスが作り出す「宝石」
第3章 不完全なウイルスたち―生物から遠ざかるのか、近づくのか
 「区画」とリボソーム
 リボソームRNAと翻訳システム
 「不完全」なウイルスたち
 「共通祖先」を追え!
 リボソームは水平移動の夢を見るか
第4章 ゆらぐ生命観―ウイルスが私たちを生み出し、進化させてきた!?
 細胞核はウイルスが作った!?
 「区画化」する意味
 ウイルスとは何か
 ウイルスの本体とは!?そして生命とは?
 
【著者】
武村 政春 (タケムラ マサハル)
 1969年、三重県津市生まれ。1998年、名古屋大学大学院医学研究科修了。医学博士。名古屋大学助手等を経て、東京理科大学理学部第一部教授。専門は、巨大ウイルス学、生物教育学、分子生物学、細胞進化学。
 
【抜書】
●CEOs(p218)
 CEOs……カプシドをエンコードする生物。カプシドを使って、宿主に感染し、たんぱく質を作らせる。パトリック・フォルテールによる、ウイルスの新たな定義。
 REOs……リボソームをエンコードする生物。従来の生物。リボソームを使ってたんぱく質を作る。
 
●ヴァイロセル(p221)
 ヴァイロセル(virocell)……ウイルス粒子に感染した細胞。パトリック・フォルテールが提唱した概念。
 ライボセル(ribocell)……ウイルス粒子に感染していない「普通の」細胞。リボソームをフル活用して自分自身のたんぱく質を作り出している。
 
(2017/9/16)KG
 
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イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応
 [歴史・地理・民俗]

イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応 [ 米倉 誠一郎 ]
 
米倉誠一郎/著
出版社名:東洋経済新報社
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-492-37120-6
税込価格:2,160円
頁数・縦:313p・20cm
  
 
 幕末から明治期において、日本の発展を促した政府、企業家たちの創造的対応にフォーカスして近代史を顧みる。
 
【目次】
第1章 近代の覚醒と高島秋帆
第2章 維新官僚の創造的対応―大隈重信志士から官僚へ
第3章 明治政府の創造的対応―身分を資本へ
第4章 士族たちの創造的対応―ザ・サムライカンパニーの登場
第5章 創造的対応としての財閥―企業家が創り出した三井と三菱
第6章 科学者たちの創造的対応―知識ベースの産業立国
終章 近代日本の創造的対応を振り返る
 
【著者】
米倉 誠一郎 (ヨネクラ セイイチロウ)
 1953年東京都生まれ。一橋大学社会学部、経済学部卒業。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。ハーバード大学歴史学博士号取得(Ph.D.)。1995年一橋大学商学部産業経営研究所教授、1997年より同大学イノベーション研究センター教授。2012~14年はプレトリア大学GIBS日本研究センター所長を兼務。2017年4月より一橋大学イノベーション研究センター特任教授、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授。
 
【抜書】
●風説書(p21)
 幕府は、風説書という形でオランダ、清、朝鮮の情報を仕入れていた。
 『和蘭風説書』……対日貿易の見返りとして、オランダ商館長より、江戸幕府に提出された。世界情報の報告書。オランダ語の原文も提出させた。1641~1854年、毎年提出された。
 『別段風説書』……アヘン戦争(1840~1842年)以降、『和蘭風説書』に加えて、より詳細な世界報告を要求した。長崎で翻訳されたもの、江戸で翻訳されたもの、原文の3種類が残っている。
 『唐国風説書』……清国との貿易によって、清国側によるアヘン戦争の顛末も入手。
 幕府は、アヘン戦争に関する情報を単一の情報源に頼らず、三つの、しかも中国とオランダという対極的な複数のソースから仕入れていた。
 
●通商和平(p41)
 開国に対する高島秋帆の考え方。1855年「海外交易の建議(嘉永の上書)」による。
 ① 日本のような小国は海外貿易によって国を建てることが重要であり、有用なものを無用のもので替える、というしたたかな交易法である。
 ② また、海外の良いものは積極的に取り入れて学び、自国の足りない部分を補完すべきである。
 
●自己矛盾(p77)
〔 明治維新は、封建体制の末端に所属した下級士族によって主導された点で、ブルジョワ革命とは異なる。封建体制を打倒したその主体が、打倒すべき封建制の一部だったからである。したがって、明治維新政権とは近代化が進むにつれ、いずれ自己否定をせざるを得ないという自己矛盾をはらんだ体制であった。〕
 明治維新は、先進的な下級士族に主導された「ブルジョワ革命」と、尊王攘夷を掲げた「絶対主義革命」の両者が同時並行した日本独自の革命形態。
 
●金禄公債証書(p85)
 幕藩体制下で支給されていた俸禄(年俸)を一定の計算式で数年分に合算し、その総額を通常年7%の利付公債として士族に支給した。
 大名とその家臣団約19万世帯が対象。
 秩禄処分が、封建体制における身分の「有償」撤廃であった。イノベーティブな点は、旧士族の特権と身分を一時金で買い取ったこと。
  
 ●笠井順八(p94)
 1835-1919年。旧萩藩士、小野田セメントの創業者。下級士族有田甚平の三男として生まれ、7歳の時に笠井英之進の養子となる。
 1848年、再建された藩校明倫館に入学、藩校席次第2位の好成績を修める。しかし、「身分が低い」ことを理由に、成績上位3名による藩主へのご進講から外される。憤りを覚え、自主退学。独学で学問を続ける。
 ペリー来航後、長州藩は相模湾三浦岬の沿岸線警備を担当することになり、笠井も江戸に上る。江戸藩邸で財務経理官として2年ほど勤務。
 維新後の藩政改革で、会計局庶務方助役となり、旧藩財政の残務整理と藩札整理に当たる。
 1880年(明治13年)、士族13名の同志を募り、セメント製造会社を設立する。「士族就産金拝借願」を山口県に提出し、士族授産金を受ける。その担保として士族たちに発行された七分利付金禄公債を抵当に差し出す。資本金88,000円の株式会社を発足。金禄公債額面50円に対して1株を発行。
 中下級士族たちの「士族の士族による士族のため」の創業。
 株式会社の形態……現金出資ではなく、公債出資という変則形態。実際には、公債所有権は出資士族に残したまま、それを担保に借入金をして資本調達をする形をとる。その結果、公債から生じる年7%の利子は株主に配当され、事業が継続している限りは公債からの収入が保証される。
 
●陸軍大阪砲兵工廠(p107)
 小野田セメントは、工場建設において、主要機器は陸軍大阪砲兵工廠に発注した。発注にあたり、工部省赤羽工作分局、海軍築地兵器製造所、工部省兵庫造船局にも見積もりを出したが、大阪砲兵工廠が最も安価であった。
 大阪砲兵工廠は、当時、多数の民間用蒸気機械や旋盤などを製造していた。発展していなかった民間の機械生産を代替。日本の工業化を切り開く先達となった。
 
●2500人(p124)
 第二次世界大戦後、GHQが実行した「経済人パージ」において、第一線から追放された企業のトップ経営者は、財閥傘下企業約500社の2,500人近くにのぼった。
 
●三井高利(p128)
 三井の創業者。1622年(元和8年)、伊勢国松坂の地方商人の四男として生まれた。
 1673年(延宝元年)、50歳の時に、江戸に出て越後屋と呼ばれる呉服店を開業した。
 このころ、江戸の伝統的な呉服屋は、基本的に定価をつけず、馴染みの客を店内に呼び込み、個別交渉による掛け売りで商売を行っていた。顧客は信用のある武士や豪商。
 越後屋は、「店前売り」と「現金安売り掛け値なし」の定価販売によって中産階級の人気を博した。開業10年後の1683年には、大規模な両替業も営むようになる。呉服店、両替商とも幕府御用達となる。
 高利死後に三井家を継承した三井高平は、高利の残した膨大な遺産を分割せず、共有財産として相続管理することを決めた。1710年、「三井大元方」(ある種の持ち株会社)を設置。9つの家族(のちに11家族)から構成され、呉服屋や両替商の経営を共同管理し、事業ばかりか家族のあり方も厳しく統制する組織だった。「三井家家憲」も制定。年に2度、事業からの収益を各家の持ち分に応じて配当。
 
●三野村利左エ門(p131)
 三井は、幕末、創業以来初めて、三野村利左エ門(1821-77、当時は美野川利八。出羽庄内藩出身)という新興商人を番頭に引き抜いた。
 三野村は、明治政府が樹立されると、維新政府への財政支援を開始した。まず、太政官札の流通を請け負う。ほかにも、政府の金融、両替、貿易における重要な仕事を次々に請け負う。大蔵省(会計官)の為替方御用、貿易商社代表、為替会社代表、伊豆七島産物売り捌き、北海道物産販売促進、など。
 1876年、三井銀行設立。その際、不振だった呉服業を分離。三越家という分家を創設し、そこに譲渡。三井組を解散する。資本と経営の分離を促す。
 この改革を通じて、三野村は三井大元方総括に任命され、三井家家政についての全権を託された。
 
●三菱商船学校(p179)
 1875年11月、隅田川河口の霊岸島に設立。明治政府は、三菱に船舶を譲渡する条件として、船員養成学校の設立を命じた。台湾出兵で、船舶運航技術の重要性を認識したため。
 1888年、東京商船学校として三菱から独立。
 
●多角化戦略(p195)
〔 財閥とは、近代化初期に生じる経営資源(特に人材)の希少性に俊敏に対応し、その多重利用を通じて事業の多角化を達成した組織的イノベーションの結果であった。したがって、その中心業務は政府の財政機能を補完するような金融・通商・海上運輸業務、あるいは資源関連の鉱工業や官営工場によって移植された事業の払い下げ分野に集中した。
 しかし、日本の近代化は、いわゆる財閥が担った金融・海運産業、鉱工業部門や移植産業に続いて、輸入代替を目標に国産化された産業あるいは知識ベースで創出された新産業が出現することでさらに進展した。旧財閥の経済活動の限界を埋め、重化学工業部門における新産業創出を担ったのが、いわゆる新興財閥であった。〕
 
●芋蔓式経営(p258)
 理研コンツェルンは、大河内正敏の主導のもと、芋蔓式経営を行った。
 芋蔓式経営……大河内が、ドイツのアルコール製造業者のビジネスモデルをもとに考案した経営手法。ドイツのアルコールは、芋を原料にしている。芋農家を後方統合し、芋の副産物として出る蔓や葉を飼料として養豚業を営む。さらに、豚を加工して酒のつまみとなるソーセージを作る。本業のアルコール製造と補完関係にある農業、養豚業、食品加工業といった具合に多角化していくビジネスモデル。
 
(2017/9/16)KG
 
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ゲームの支配者ヨハン・クライフ
 [スポーツ]

ゲームの支配者 ヨハン・クライフ
 
ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンク/著 円賀貴子/訳
出版社名:洋泉社
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-8003-1242-6
税込価格:2,160円
頁数・縦:478p・19cm
 
 
 クライフを主人公に、現代サッカーの変革を語る。
 それはもともと「トータルフットボール」と呼ばれていた概念で、現代サッカーにおいて最高レベルで達成しているのはバルセロナFCであり、国代表ではスペインか。
 
【目次】
クライフは世界のサッカーの発展にどのレジェンドたちよりも大きな影響を与えた
クライフ、オランダ、バルセロナについて語る
ヨハン以前のオランダ
アヤックス、モークム、イスラエル
トータルフットボールの誕生
ピッチの王様
偉大なるアヤックス
バルセロナへのカルチャー・トランスファー
市民的な反逆者
ほぼ、完璧な夏
痛みはあとからやってくる
アムステルダムへの帰還
“モダン・バルサ”の創造主
これがサッカーだ
“3”でなければならない
ラスト・バトル
 
【著者】
シュルツェ=マルメリンク,ディートリッヒ (Schulze-Marmeling, Dietrich)
 1956年生まれ。ドイツ・ミュンスター近郊の町アルテンベルゲに住む作家、講師。ドイツ代表、ワールドカップ、欧州選手権、ユダヤ人サッカーなど、サッカー史に関する多くの著作により高い評価を得る。
 
円賀 貴子 (マルガ タカコ)
 1971年生まれ。1995年からドイツ在住。大学で国際政治と美術史を学んだあと、サッカーに“転向”。『サンケイスポーツ』の通信員として、毎週ブンデスリーガ、チャンピオンスリーグ、欧州リーグなど年間100試合を取材。ドイツを縦横断する生活を続ける。サッカー各誌でインタビューのコーディネイトや翻訳も行なっている。
 
【抜書】
●デンマーク(p52)
 1889年12月、デン・ハーグのカフェ・セントラルで、Nederlandse Atletiek- en Voerbalbond(NAVB:オランダサッカーと陸上競技協会)が結成された。
 ヨーロッパ大陸で二つ目の、国レベルのサッカー協会。
 一つ目の協会は、1889年5月に創立されたデンマークのダンスク・ボルトスピル・ユニオン(DBU)。
 NAVBは、1895年にオランダサッカー協会(NVB)とオランダ陸上連盟(NAB)に分かれる。
 1929年、NVBからKNVB(Koninklijke Nederlandse Voerbalbond)に改称。
 訳注:「コーニンクレッカ」とは、王や女王から与えられる栄誉称号。
 
●フライング・ダッチマン(p62)
 高いレベルの選手として初めて外国のクラブとプロ契約を結んだのは、アーセナルFCに所属したジェラルド・ピーター(ゲーリット)・ケイザーというアヤックスのゴールキーパー。1930年。
 サッカー選手としてより、英語力を高めるために渡英した。生活費を稼ぐため、ロンドンのコヴェントガーデンにある八百屋で働きながら、アーセナルと関係の深いアマチュアチームでプレーしていた。ハーバート・チャップマン監督の目に留まり、スカウト。
 土曜日にアーセナルでプレイ、日曜日にはアヤックスのリザーブチームでプレー。そのため、イングランドの記者とチームメートは、ケイザーを「フライング・ダッチマン」と命名した。
 ※ 「フライング・ダッチマン」は、もともとクライフに与えられた呼称ではない?
 
●2本線(p248)
 1974年、W杯西ドイツ大会のオランダチーム。ユニフォームはチームサプライヤーのアディダスの3本線だったが、クライフだけ2本線だった。
 クライフがプーマと個人契約を結んでいたため。
 
(2017/9/6)KG
 
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都知事失格
 [社会・政治・時事]

都知事失格
 
舛添要一/著
出版社名:小学館
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-09-389772-3
税込価格:1,404円
頁数・縦:286p・19cm
 
 
 マスコミのバッシングにあい、2年と数か月で都知事を辞任せざるを得なった舛添要一による顛末書。そして、自らが進めようとした都政の具体策が述べられている。
 あの頃のヒステリックな舛添批判には違和感を感じていた。報道の内容を見る限りでは、せこいな、とは感じたものだが、都知事を辞めなければならないほどの大事なのか、というのが率直な印象であった。間違った政策を行っているわけでもないし、収賄などの汚職もない。にもかかわらず、なぜ、あそこまで大騒ぎをしなければならないのか、理解できなかった。
 それが、本書による本人の弁解により、腑に落ちた。やはりあの頃に感じた違和感は正常な反応であった。また、せこいと感じた絵画購入や別荘への公用車利用、海外でのスイートルーム利用なども、正当な理由があったのだということも分かった。マスコミの報道だけ見ていたのでは(と言っても庶民には他に真実を知る手段がないのだが)、見えないものがたくさんある。報道関係者は、批判されている当事者の弁明もきちんと伝え、市民が公正な判断を下せるようにすべきである。さもないと、報道機関の歪んでいる(かもしれない)主張だけが世間に垂れ流されることになる。
 舛添さんは、まっとうな考えと、きちんとした構想を持ったまじめな政治家であると感じた。決して、「都知事失格」ではない。道半ばで挫折させられたことが残念である。
 持ち前の反骨精神で、復活することを期待している。
 
【目次】
第1章 誰が私を刺したのか
第2章 都庁は「不思議の国」だった
第3章 韓国訪問とヘイトスピーチ
第4章 ファーストクラスは「悪」なのか
第5章 五輪と敗戦
第6章 見果てぬ東京
第7章 小池知事へ―カジノ・豊洲・広尾病院
 
【著者】
舛添 要一 (マスゾエ ヨウイチ)
 1948年福岡県北九州市生まれ。1971年東京大学法学部政治学科卒業。東京大学法学部助手、パリ大学現代国際関係史研究所客員研究員、ジュネーブ高等国際政治研究所客員研究員、東京大学教養学部政治学助教授などを経て、1989年舛添政治経済研究所を設立。2001年参議院議員に初当選し、厚生労働大臣(安倍内閣、福田内閣、麻生内閣)等を歴任。2014年2月、都知事就任。2016年6月、辞任。
 
【抜書】
●選挙権(p119)
 戦前、内地居住の朝鮮人・台湾人には、日本人と同等な選挙権も被選挙権もあった。
 北九州は、在日朝鮮人が多かったので、舛添要一の父親弥次郎が若松市会議員に立候補した時、選挙ポスターには、「舛添弥次郎」にハングル語でもルビが降ってあった。
 
(2017/9/6)KG
 
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