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平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世
 [歴史・地理・民俗]

平安京はいらなかった: 古代の夢を喰らう中世 (歴史文化ライブラリー)

桃崎有一郎/著
出版社名:吉川弘文館(歴史文化ライブラリー 438)
出版年月:2016年12月
ISBNコード:978-4-642-05838-4
税込価格:1,944円
頁数・縦:276p・19cm


 平安京は、唐や新羅との対抗上、律令制に移行するために造られた都だったが、規模が大きすぎ、不要な施設も多く、1200年を通して結局は完成を見ず、無駄な都市であった……。

【目次】
中世からは見えない中世京都―プロローグ
平安京の規格と理念
 古代のミヤコと中国の都城―律令国家が求めたもの
 平安京の規格―座標系に投影された身分秩序の写像
 日本の身分制度―ラベルとしての位階官職、原点としての天皇
 平安京の構造と身分制度―観念的な秩序の実体化
実用性なき平安京
 平安京を守る朝廷、平安京を破壊する住人
 平安京は日本の実情に合わせて造られたか
 実用性なき首相街路・朱雀大路
 外交の“舞台”としての朱雀大路
 祭礼の“舞台”としての朱雀大路
大きすぎた平安京―“平安京図”という妄想
 未完成の平安京
 衰退する右京
 成長する左京
 土地だあり余る平安京
 平安京を埋められない人口
 縮小する政務、引きこもる天皇
平安京の解体と“京都”への転生
 摂関政治と平安京の再利用―平安京の終わりの始まり
 持て余す大内裏、快適な里内裏―仮住まいに永住する天皇
 院政が捨てた大内裏―中世京都への脱皮、抜け殻としての平安京
 大内裏を諦めなかった男・信西―選択と淘汰の大内裏再建
 信西の中世国家設計と正面観主義―“背景セット”としての平安京・大内裏
内裏の適正サイズと大内裏の中世的“有効活用”―エピローグ

【著者】
桃崎 有一郎 (モモサキ ユウイチロウ)
 1978年東京都に生まれる。2001年慶應義塾大学文学部卒業。2007年慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(史学)。現在、高千穂大学商学部教授。

【抜書】
●得宗(p3)
 得宗……鎌倉幕府の執権北条氏の嫡流。執権になると相模守に任じられた。
 相模守は、得宗・執権の象徴。唐名(唐風に気取って呼んだ別称)の「相州」「相太守」は、幕府の支配者を意味した。

●律令国家(p9)
〔 平安京を生み出した日本の律令国家は、もとはといえば、唐や新羅との軍事的な緊張に対応するために造られた。しかし、律令国家の都の完成形が平安京として生まれ落ちた時、危機はとうに去っていた。これからは、唐を中心とする国家秩序と距離を置き、日本列島の中で幸福を追求した方が、この国の得られる満足度が高そうだ。そう判断した時、多くのものが不要であることに、朝廷は気づいた。
 とはいえ、かつて大々的に掲げてしまった“律令制”という看板は、もう引っ込みがつかない。それは体制面の問題でもあるし、律令制にはほかで代用できない便利な機能も多い。そこで朝廷は、“律令制” という看板(建前)を下さないまま、律令制の内実を換骨奪胎して、必要十分な最小限のシステムへと減量(ダイエット)させていった。〕

●歴代遷宮(p15)
 中国を模倣する以前の、倭の大王の宮殿は、大王が代替わりするたびに別の場所に造り替えられた。歴代遷宮。
 平安京の本質は、74代(南北朝期は北朝)もの天皇が、平安京を使い続けたことにある。つまり、代替わりによって都を移らないことが、「倭国」を卒業して「日本国」となった、国家の本質の変化。
 歴代遷宮……倭国の政府の実体は、大王個人と豪族個人の人格的なつながり、つまり1対1の個人的な人間関係の寄せ集めであった。大王が替わるたびに、政権を運営する豪族が替わる。当時、すでに豪族たちが飛鳥を中心とする地域一帯に根を下ろし、現地の人民を支配していた。大王はそこに後から登場(即位)したのであり、政権運営のためには、豪族たちに協力を要請しなければならなかった。大王と豪族の先後関係が、政権の所在地に反映された。仁藤敦史『都はなぜ移るのか』(吉川弘文館、2011年)。
 持統天皇8年(694年)に造営された藤原京より、都市が丸ごと遠方に移る「遷都」が行われた。豪族を支配地域から引きはがし、天皇の都(京)に住まわせるため。
 藤原京……近代の研究者が創作した造語。実際には新益京(あらましのみやこ)と呼ばれた。

●平安京(p31)
 東西1508丈(4501m)×南北1751丈(5226m)。
 1丈=10尺、1尺=29.844518cm。
 大路は広さ10丈(30m)、小路(こうじ)は広さ4丈(12m)。
 現在の「普通道路」は、1車線につき幅3.25m。
 大内裏(平安宮)は、東西384丈(1146m)×南北460丈(1373m)。

●条坊制(p33)
 町(ちょう)……市街地の1区画を町(方一町)という。40丈(119m)四方。
 坊……町を4×4集めた区画。坊の周囲には必ず大路が通る。坊の中を東西南北3本ずつの小路が通り、町の境界となす。

●冊封、羈縻(p89)
 布目潮渢/栗原益男『隋唐帝国』(講談社、1997)。
 冊封……現地の王を唐の皇帝が改めて王に任命することで、相手国の事実上の独立を認めながら、形式上で唐に従属させる手法。主に東アジアに対して行われた。
 羈縻……現地の王の支配を追認しつつ、唐の地方官に任命し、都督府や都護府などの唐の統治機関を現地に置いて、間接的に支配する手法。突厥など北方・西方の諸蕃に多く用いられた。

●儀礼の劇場(p103)
〔 外交も祭もともに本質が儀礼であり、その出演者たちが所作を演じる舞台として朱雀大路を用い、同時に多数の見物人が観客席として朱雀大路を用いたならば、それは街路という形をとった”劇場”と見なしてよい。そして、朱雀大路が外交・祭の時だけ使われたのならば、“儀礼の劇場”であることにこそ、朱雀大路の最大の存在意義があったことになる。しかも大嘗会は祭礼の形を取りながら、実際には天皇の即位儀礼であり、つまり新天皇の権威を誇示するための儀礼だ。そしてまた外交も、天皇率いる日本国(倭国)の国威を周辺諸国に誇示するための儀礼だ。つまり朱雀大路の存在目的は、“天皇権威を誇示する儀礼の劇場”であったと結論できる。〕
 朱雀大路は、広さ28丈(約82m)もあった。『延喜式』による。(p76)

●巷所(p107)
 巷所(こうしょ)……平安京で、街路を勝手に農地として耕したところ。街路では、牛馬の放し飼いも行われていた。

●王家(p136)
 王家……院政期の新興勢力の一つ。治天を家父長とする一家。近代の「皇族」と区別するため、「王家」と呼んでいる。
 上皇が「治天(の君)」と呼ばれて政務を執るようになると、家父長的な権力のあり方が発達した。それにより、治天とその直系親族が巨大な富を集積する最大の新興勢力となった。
 たとえば鳥羽法皇の皇女、暲子(しょうし)内親王は、女院となって八条院と呼ばれ、八条院領という巨大な荘園・所領群を相続した。
 女院(にょいん)……天皇の母や有力な皇族女性に与えられる、院=上皇と同等の待遇。

●京都御所(p254)
 両統迭立の時代、一方から他方へ天皇が替わるたびに里内裏も移動し、鎌倉後期を通じて転々とした。平安宮(大内裏)が使われることはなかった。
 建武3年(1336年)、北朝の初代、光明天皇が土御門殿(土御門内裏)という邸宅を里内裏にすると、その後は里内裏は固定され、二度と動かなくなる。1町四方の区画。今日の京都御所の原型。しかし、1401年まで、南半分には新長講堂という王家の寺院があり、半町の面積しかなかった。

(2017/2/24)KG

〈この本の詳細〉


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