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ジャポニスムと近代の日本
 [歴史・地理・民俗]

ジャポニスムと近代の日本
 
東田雅博/著
出版社名:山川出版社
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-634-59088-5
税込価格:1,620円
頁数・縦:127p・21cm
 
 
 幕末から明治維新にかけて、ヨーロッパで起こったジャポニスムに関して考察する。
 主な視点は万国博覧会と文学作品に現れたジャポニスム。そして、シノワズリーとの関連に関しても言及。
 
【目次】
Ⅰ部 ジャポニスム
 1章 ジャポニスムとは何か
 2章 ジャポニスムはなぜ起こったのか
 3章 ジャポニスムは何をもたらしたのか
 4章 新しい研究
Ⅱ部 ジャポニスムで近代日本の歴史を読む―「歴史総合」試案
 5章 ジャポニスムは近代史のなかにどう位置づけられてきたのか
 6章 ジャポニスムを近代史のなかにどう位置づけるのか
 
【著者】
東田 雅博 (トウダ マサヒロ)
 1948年、大阪市生まれ。1981年、広島大学大学院文学研究科博士課程修了、西洋史学専攻。博士(文学)。富山大学人文学部教授、金沢大学文学部教授などを経て、金沢大学名誉教授。
 
【抜書】
●ジャポニスム、ジャポネズリー(p6)
 ジャポネズリー……「異国の珍しいものへの関心を強調するニュアンスが強い」。(高階秀彌「ジャポニスムとは何か」『ジャポニスム入門』ジャポニスム学会編、思文閣出版、2000年)
 ジャポニスム……「むろんそこにエキゾティスムの要素が大きな部分を占めているとしても、それのみにとどまらず、そこに見られる造形原理、新しい素材や技法、その背後にある美学または美意識、さらには生活様式や世界観を含む広い範囲にわたる日本への関心、および日本からの影響が問題とされる」。(同上)
〔 かなり乱暴にまとめてみれば、ジャポネズリーは異国趣味であり、それを超えて初めてジャポニスムである、ということになるだろう。〕
 
●1862年、ロンドン万博(p21)
 「西洋における日本の芸術の発見」は、1862年のロンドン万博に始まる。ポール・グリーンハルが指摘。
 1851年、ロンドンのハイドパークで開催された最初の万博「大博覧会」においても日本の製品は展示されていた。ただし、中国の展示品に日本の製品が紛れ込んでいただけ。
 1862年の万博では、日本の展示は来訪者に衝撃を与えた。しかし、この万博を見物した竹内遣欧使節団(福沢諭吉を含む)には不評だった。展示品の中に提灯、傘、木枕、蓑笠、草履のようなものまで並んでいたことが、使節団一行には残念に、あるいは屈辱的に思われたようである。
 日本が正式に参加したわけではない。日本の展示は、在日イギリス公使サー・ラザフォード・オールコック(『大君の都』の著者。1863年発行)が中心になって行った。オールコックは、日本の文明を高く評価していた。
 
●1867年、パリ万博(p25)
 1867年のパリ万博に、日本は初めて正式に参加。徳川昭武(慶喜の弟)が派遣された。幕府末期のこの時期、そんな余裕はなかったが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュの強い要請に応える。
 薩摩藩と佐賀藩も独自に万博に参加。
 展示品は、武器、楽器、家具、和紙、書籍、衣服、陶磁器、漆器、銅器、ガラス器、根付け、『北斎漫画』や歌川国貞などの浮世絵、そして10点ほどの油絵など。3人の柳橋芸者が茶でもてなす日本風茶店もあった。
 『ロンドン画報』(1867年10月19日号)の「パリ万国博覧会 日本」という記事にて、和紙を激賞。
 「日本人の作る優良な紙は――九十種類もあるが――この紙の時代においてですら、ヨーロッパ人にはまだ知られていないようなさまざま目的に利用されている。彼らは、われわれがするように部屋に壁紙を張るだけでなく、紙の衣装や、紙のハンカチーフや、傘も持っている。……さまざまな色の日本の紙のとてもすばらしいコレクションが博覧会に出品されていて、われわれにはまだ、それほど完全に知られていないこの国から来るすべてのものと同様に、大きな興味をそそるのである。」
 
●エミール・ゾラ(p52)
 エミール・ゾラ『愛の一ページ』(1878年)。美しく貞淑な若き未亡人と、隣に住む富裕な医師との不倫の物語。この医師の庭園が、妻の日本趣味に彩られている。「日本風のあずまや」が設けられている。
 「壁と天井には金色のブロケード織りの布が張りめぐらされ、飛び立っていく鶴の群れや、極彩色の蝶と花、それに黄色い河に青い小舟が漂っている風景などが描かれていた。目の細かい茣蓙の敷かれた床には、黒檀でできた椅子と花台がいくつも置かれている。漆塗りの家具も数点あって、小ぶりの青銅彫刻、小さな東洋の陶磁器、それに、けばけばしい原色で塗りたくられた奇妙な玩具など、夥しい数の置物が所狭しと並べられていた。奥にはザクセン焼きの大きな東洋風の人形が置かれていたが、膝を折り曲げて座っている、このむき出しの布袋腹の持ち主は、ちょっと押されただけでも、見るからに楽しげな様子で、狂ったように頭を揺り動かすのだった。」(石井啓子訳、藤原書店、2003年、p.73)
 ゾラは、マネなど、印象派の画家たちと深く関わっていた。彼らから、ジャポニスムの影響を受けた?
 
●ギ・ド・モーパッサン(p56)
 ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885年)。元下士官のジョルジュ・デュロワが、男前を武器に中上流階級の女性をたらし込んで出世する物語。
 「彼は、……いよいよ女がくるとなると、できるだけうまく部屋のみすぼらしさを隠さなければならないが、それはどうしたらよかろうかと考えた。そして、日本製のこまごました品物を壁にピンでとめようと思いつき、五フラン奮発して、ちりめん紙や小さな扇や屏風を買い、それで壁紙の目立ちすぎるしみを隠した。窓のガラスには、川に浮かぶ船や夕焼け空を飛ぶ鳥やバルコニーによりかかる極彩色の貴婦人や雪の野原をいく黒い小さな人形の行列などをあらわした、透明な写し絵をはった。
 狭くて、寝るところと腰をおろすところしかない彼の住居は、やがて絵を描いた提灯の内側のようになった。」(田辺貞之助訳、新潮文庫、1976年、p.117)
 
●日本人の軽業興行(p67)
 松井源水一座による軽業見世物が、1868年2月2日より5月4日まで、ロンドンで行われた。ジョン・ラスキン『時と潮』所収の「第六の手紙 近代娯楽の堕落(日本の曲芸師)」(1867年2月28日付け)に、以下のように記述されている。
 「日本の曲芸師の一団が興行するためにロンドンに来ていることは聞いているだろう。かなり前から日本の美術への関心が高い。このことはわが国の画家たちにきわめて有害であった。わたしは日本人がどんな人々であるのか、彼らが何を成し遂げたのかを知りたかった。」
 「演技全体を見た印象は、劣等な人種と呼べる人間が存在しているのだというものであった。とはいえ、あらゆる点においてではない。人間の優しさ、家庭的な愛情、器用さなどが認められないわけではない。しかしながら彼らは国民としては悪魔的精神に捕らえられ、それによって何年もの忍耐を経て下等動物の性質とある程度類似するように自らを造り替えるよう追い込まれたのだ。」
 軽業興業は、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカ、オーストラリアなどでも行われた。
 
●日本人村(p68)
 1885年1月10日から、ロンドンのナイツブリッジで日本人村の興行が始まる。
 「日本の意匠や様式で建てられた店舗、住居、茶店、および寺院だけではなく、日本の土着の工芸家や職人および彼らの家族をまとめてこの国に運び込み、ロンドンの中心部にできた小さな植民地に移植するという、今までにない思い付きが周到かつ上品に実行に移された。」(『タイムズ』紙)
 舞台が設えられ、軽業、足芸、綱渡り、相撲、チョンナキ踊りなども演じられた。
 入場料は1シリング。開幕4か月で25万人が来場した。
 しかし、日本人村は火災で焼失、再建されたが客足は今一つであった。
 日本人村は、ギルバートとサリバンのオペラ『ミカド』にも強い影響を与えた。初日のプログラムに、「上演にあたって、ナイツブリッジの日本人村の責任者および住民の貴重なご助力を受けたことに深く感謝する」との謝辞が見える。
 マイク・リー監督の映画『トプシー・ターヴィー』(1999年)には、日本人村の女性が『ミカド』の出演者たちに演技指導しているところが描かれている。
 
●プルースト(p71)
 プルーストは、盆栽にほれ込むほど日本びいきだった。
 『失われた時を求めて』には、さまざまな日本のモノが次々と登場する。
 ・水中花遊び(鈴木道彦訳、集英社、2001年、1巻、pp.92-93)
 ・「日本趣味の七宝模様」(同1巻、p.299)
 ・「日本の墨絵のような影」(同1巻、p.391)
 ・「日本の屏風に描かれているような」(同5巻、p.178)
 ・「銀色の地に日本画の手法で描かれたノルマンディのリンゴの木」(同12巻、p.13)
 
(2017/6/24)KG
 
〈この本の詳細〉


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