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ハーバードで喝采された日本の「強み」
 [社会・政治・時事]

ハーバードで喝采された日本の「強み」
 
山口真由/著
出版社名:扶桑社
出版年月:2017年3月
ISBNコード:978-4-594-07666-5
税込価格:1,404円
頁数・縦:221p・19cm
 
 
 日本の超エリートと目される財務省勤務、弁護士活動を経て、ハーバード大学ロースクールに留学した、東大法学部首席女子の挫折と、日本再発見のエッセー。
 
【目次】
第1章 私を白熱させたハーバードの授業
第2章 ハーバードで受けた洗礼
第3章 トランプ大統領を誕生させたアメリカ社会の二極対立
第4章 ハーバードで喝采された日本の「強み」
 
【著者】
山口 真由 (ヤマグチ マユ)
 1983年、札幌市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験、国家公務員1種に合格。全科目「優」の成績で2006年に首席卒業。財務省勤務を経て、弁護士として活動したのち、2015年夏からハーバード大学ロースクールに留学。2016年に卒業し、帰国。
 
【抜書】
●思想の自由主義(p22)
 アメリカの根底にある考え方。裁判官のような一部のエリートが、保護に値する「価値ある表現」と、保護に値しない「価値なき表現」を分けることを本能的に嫌った。一部のエリートに任せるよりは、大衆を信用しようという考え方。
 オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア……アメリカ史上最も賢い判事の一人と言われている。それまでのイギリス法学の流れを転換し、アメリカ独自の法解釈の基礎を作り上げた人物。いまだに判決で最も引用される判事の一人。古典経済学における「市場」の理論を思想にも適用した。
  とにかくどんな考えでも自由に表明させよう。
  そして対立する思想を自由にぶつけ合わせよう。
  多くの支持を得た意見が生き残るだろう。
 
●ハーバード流交渉術(p33)
 〔ハーバードの交渉術で重視されるのは、「交渉に勝つこと」ではなくて、「価値を作り出すこと」だ。〕
 〔相手がこの交渉によって得たい価値を明確に把握したうえで、自分が得たい価値と並び立つようにする。〕
 〔パイを大きくすることができれば、全員が得する状況を作り出せる。こうやって、パイを広げられるのが、優れた交渉人だと教えらえる。〕
 〔相手が本当に欲しているものは何かを探り、相手の面子を立てつつ、相手と自分の利益を調整するのが「根回し」の技術である。〕
 〔ハーバード流交渉術の極意は、相手に気持ちよく「YES」と答えてもらうこと。そう考えると、テーブルに着く前に、相手との信頼関係を構築し、真意を聞き出し、そして相手が「YES」といえる提案を用意している日本の根回しは、相当に洗練された交渉術だ。〕
 
●曖昧調和(p186)
 〔アメリカの「二極対立」文化とは真逆の、「曖昧調和」文化とでもいうべき風土を日本は持っている。そしてそれは、アメリカの限界を超えうる、大きな可能性を秘めたものだった。〕
 
(2017/6/25)KG
 
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信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 [歴史・地理・民俗]

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 
ロックリー・トーマス/著 不二淑子/訳
出版社名:太田出版
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-7783-1556-6
税込価格:1,944円
頁数・縦:263, 16p・19cm
 
 
 イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に帯同し、信長に贈られた「黒人侍」弥助の数奇な人生を、限られた数少ない資料を基に推理する。
  
【目次】
第1章 日本上陸と信長との謁見
第2章 弥助の経歴を紐解く
第3章 現代に伝わる弥助伝説
第4章 弥助が生きた時代
第5章 弥助はどこから来たのか
第6章 信長の死後の弥助
第7章 弥助の生涯を推測する
付録 第一章「日本上陸と信長との謁見」に関する補足史料
 
【著者】
ロックリー,トーマス (Lockley, Thomas)
 日本大学法学部専任講師。研究分野は言語学習。担当教科は歴史で、特に国際的視野に立った日本史を扱う。イギリス出身、日本在住。
 
不二 淑子 (フジ ヨシコ)
 翻訳家。早稲田大学第一文学部卒。
 
【抜書】
●非ヨーロッパ世界(p99)
〔 しかし、たてつづけに出版が続いたあとは、黒人侍の逸話は三百年間忘れ去られてしまったようである。二十世紀前半に日本が強国となり、その国際的影響力が非白人国の中で突出したとき、日本国内で非ヨーロッパ世界と再びつながろうとする動きが起こり、白人帝国主義の犠牲者である黒人に対しても親しみを持つようになった。第一次世界大戦前に〈脱亜入欧〉というスローガンを掲げていた時期の反動とも言える流れだった。第二次世界大戦直前の日本は、当時の西欧社会がけっして日本人を同等とは見なさないことを認識し、考えを改めたのだった。この新しい波が起こった結果、弥助の逸話のように半分忘れ去られていた話の多くにスポットが当てられ、非ヨーロッパ世界との国際協調を促すために利用された。
 ここで忘れてはならないのは、日本が第二次世界大戦に参戦した大義名分は――最終的にどういう結果になったにせよ、また戦後に歴史がどう捉えたにせよ――、ヨーロッパ列強の植民地支配からの脱却だったという点だ。二十世紀初頭には世界中の何百万もの人々がこのメッセージを信じ、日本の方策を支持するにせよしないにせよ、そこから何かを感じ取っていた。その中には、ガンジー、中国最後の皇帝溥儀、孫文、スカルノ、アウンサン[ビルマの独立運動家。アウン・サン・スーチー氏の父親]といった著名人や、それほどではないアジアやアフリカの独立運動の指導者たちもいた。今日ではほとんど忘れられているが、日本軍には日本国内の日本人だけでなく、台湾と朝鮮の植民地部隊や中国と満州の志願兵、遠く離れたインドの反植民地主義者の同盟軍も含まれていた。また、二十世紀初頭には、欧米列強による統治と支配を終わらせてアジア人のためのアジアを築くという汎アジアの夢の名のもとに、中国やフィリピンで起こった独立運動に参加して死ぬまで戦った日本人志願兵もいた。〕
 
●カスティーリャ王国(p156)
 15世紀のイベリア半島は、カスティーリャ王国がポルトガルを除く全地域を支配していた。
 ポルトガルは、かろうじて独利した王国を維持していたが、中世の封建制度から中央集権的な君主制へ移行しつつある貧しい発展途上国に過ぎなかった。キリスト教国とは友好関係を保ち、北アフリカのイスラム教国とは聖戦を行っていた。そのため、ポルトガル船は、母国から遠く離れた港に向かうようになった。交易によって経済を発展させるため、海洋船を建造、アフリカ沿岸を目指す。喜望峰を通過し、インド洋まで到達、東洋の香辛料や富への道を開いた。ただし、この事実は国家機密。他のヨーロッパ諸国がモロッコ以南のアフリカ西海岸に何があるのかを知るのは、15世紀終盤、スペイン国王の支援を受けた探検隊が遠征に乗り出すようになってから。」
 
●アレッサンドロ・デ・メディチ(p173)
 ルネッサンス期のイタリアには、自由民のアフリカ人もいた。奴隷が市民権を得て自由民となることもあった。アフリカ人自由民によるコミュニティもあった。
 バチカンには、主要なアフリカ諸国の大使館があり、アフリカ人大使が駐在した。
 アレッサンドロ・デ・メディチは、「ムーア人」というあだ名で呼ばれ、アフリカ人奴隷の女性の子供と言われていた(真偽不明)。1530~1537年、フィレンツェ公を務めた。
 
●アビシニア(p184)
 16世紀ごろのエチオピアは、複数の部族が競合していたが、最古の部族の名を取って一般にアビシニアと呼ばれていた。
 南インドでは、5世紀以降、アビシニアの硬貨が頻繁に発見されており、当時からアビシニア人が商人や船乗りとしてインドを訪れていた。
 キリスト教国のアビシニアは、周囲のイスラム国やアニミズム信仰国に囲まれ、紛争が絶えなかった。サハラ以南のアフリカでもっとも国家としての体裁を整えた国だったが、安定を欠いていた。
 
●ディンカ族(p187)
 南スーダンには、世界で一番平均身長が高い部族、ディンカ族が住んでいる。牛飼いであり、勇猛な戦士。エチオピア人、エリトリア人、ソマリ人よりも黒い肌をしている。
 
(2017/6/25)KG
 
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ジャポニスムと近代の日本
 [歴史・地理・民俗]

ジャポニスムと近代の日本
 
東田雅博/著
出版社名:山川出版社
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-634-59088-5
税込価格:1,620円
頁数・縦:127p・21cm
 
 
 幕末から明治維新にかけて、ヨーロッパで起こったジャポニスムに関して考察する。
 主な視点は万国博覧会と文学作品に現れたジャポニスム。そして、シノワズリーとの関連に関しても言及。
 
【目次】
Ⅰ部 ジャポニスム
 1章 ジャポニスムとは何か
 2章 ジャポニスムはなぜ起こったのか
 3章 ジャポニスムは何をもたらしたのか
 4章 新しい研究
Ⅱ部 ジャポニスムで近代日本の歴史を読む―「歴史総合」試案
 5章 ジャポニスムは近代史のなかにどう位置づけられてきたのか
 6章 ジャポニスムを近代史のなかにどう位置づけるのか
 
【著者】
東田 雅博 (トウダ マサヒロ)
 1948年、大阪市生まれ。1981年、広島大学大学院文学研究科博士課程修了、西洋史学専攻。博士(文学)。富山大学人文学部教授、金沢大学文学部教授などを経て、金沢大学名誉教授。
 
【抜書】
●ジャポニスム、ジャポネズリー(p6)
 ジャポネズリー……「異国の珍しいものへの関心を強調するニュアンスが強い」。(高階秀彌「ジャポニスムとは何か」『ジャポニスム入門』ジャポニスム学会編、思文閣出版、2000年)
 ジャポニスム……「むろんそこにエキゾティスムの要素が大きな部分を占めているとしても、それのみにとどまらず、そこに見られる造形原理、新しい素材や技法、その背後にある美学または美意識、さらには生活様式や世界観を含む広い範囲にわたる日本への関心、および日本からの影響が問題とされる」。(同上)
〔 かなり乱暴にまとめてみれば、ジャポネズリーは異国趣味であり、それを超えて初めてジャポニスムである、ということになるだろう。〕
 
●1862年、ロンドン万博(p21)
 「西洋における日本の芸術の発見」は、1862年のロンドン万博に始まる。ポール・グリーンハルが指摘。
 1851年、ロンドンのハイドパークで開催された最初の万博「大博覧会」においても日本の製品は展示されていた。ただし、中国の展示品に日本の製品が紛れ込んでいただけ。
 1862年の万博では、日本の展示は来訪者に衝撃を与えた。しかし、この万博を見物した竹内遣欧使節団(福沢諭吉を含む)には不評だった。展示品の中に提灯、傘、木枕、蓑笠、草履のようなものまで並んでいたことが、使節団一行には残念に、あるいは屈辱的に思われたようである。
 日本が正式に参加したわけではない。日本の展示は、在日イギリス公使サー・ラザフォード・オールコック(『大君の都』の著者。1863年発行)が中心になって行った。オールコックは、日本の文明を高く評価していた。
 
●1867年、パリ万博(p25)
 1867年のパリ万博に、日本は初めて正式に参加。徳川昭武(慶喜の弟)が派遣された。幕府末期のこの時期、そんな余裕はなかったが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュの強い要請に応える。
 薩摩藩と佐賀藩も独自に万博に参加。
 展示品は、武器、楽器、家具、和紙、書籍、衣服、陶磁器、漆器、銅器、ガラス器、根付け、『北斎漫画』や歌川国貞などの浮世絵、そして10点ほどの油絵など。3人の柳橋芸者が茶でもてなす日本風茶店もあった。
 『ロンドン画報』(1867年10月19日号)の「パリ万国博覧会 日本」という記事にて、和紙を激賞。
 「日本人の作る優良な紙は――九十種類もあるが――この紙の時代においてですら、ヨーロッパ人にはまだ知られていないようなさまざま目的に利用されている。彼らは、われわれがするように部屋に壁紙を張るだけでなく、紙の衣装や、紙のハンカチーフや、傘も持っている。……さまざまな色の日本の紙のとてもすばらしいコレクションが博覧会に出品されていて、われわれにはまだ、それほど完全に知られていないこの国から来るすべてのものと同様に、大きな興味をそそるのである。」
 
●エミール・ゾラ(p52)
 エミール・ゾラ『愛の一ページ』(1878年)。美しく貞淑な若き未亡人と、隣に住む富裕な医師との不倫の物語。この医師の庭園が、妻の日本趣味に彩られている。「日本風のあずまや」が設けられている。
 「壁と天井には金色のブロケード織りの布が張りめぐらされ、飛び立っていく鶴の群れや、極彩色の蝶と花、それに黄色い河に青い小舟が漂っている風景などが描かれていた。目の細かい茣蓙の敷かれた床には、黒檀でできた椅子と花台がいくつも置かれている。漆塗りの家具も数点あって、小ぶりの青銅彫刻、小さな東洋の陶磁器、それに、けばけばしい原色で塗りたくられた奇妙な玩具など、夥しい数の置物が所狭しと並べられていた。奥にはザクセン焼きの大きな東洋風の人形が置かれていたが、膝を折り曲げて座っている、このむき出しの布袋腹の持ち主は、ちょっと押されただけでも、見るからに楽しげな様子で、狂ったように頭を揺り動かすのだった。」(石井啓子訳、藤原書店、2003年、p.73)
 ゾラは、マネなど、印象派の画家たちと深く関わっていた。彼らから、ジャポニスムの影響を受けた?
 
●ギ・ド・モーパッサン(p56)
 ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885年)。元下士官のジョルジュ・デュロワが、男前を武器に中上流階級の女性をたらし込んで出世する物語。
 「彼は、……いよいよ女がくるとなると、できるだけうまく部屋のみすぼらしさを隠さなければならないが、それはどうしたらよかろうかと考えた。そして、日本製のこまごました品物を壁にピンでとめようと思いつき、五フラン奮発して、ちりめん紙や小さな扇や屏風を買い、それで壁紙の目立ちすぎるしみを隠した。窓のガラスには、川に浮かぶ船や夕焼け空を飛ぶ鳥やバルコニーによりかかる極彩色の貴婦人や雪の野原をいく黒い小さな人形の行列などをあらわした、透明な写し絵をはった。
 狭くて、寝るところと腰をおろすところしかない彼の住居は、やがて絵を描いた提灯の内側のようになった。」(田辺貞之助訳、新潮文庫、1976年、p.117)
 
●日本人の軽業興行(p67)
 松井源水一座による軽業見世物が、1868年2月2日より5月4日まで、ロンドンで行われた。ジョン・ラスキン『時と潮』所収の「第六の手紙 近代娯楽の堕落(日本の曲芸師)」(1867年2月28日付け)に、以下のように記述されている。
 「日本の曲芸師の一団が興行するためにロンドンに来ていることは聞いているだろう。かなり前から日本の美術への関心が高い。このことはわが国の画家たちにきわめて有害であった。わたしは日本人がどんな人々であるのか、彼らが何を成し遂げたのかを知りたかった。」
 「演技全体を見た印象は、劣等な人種と呼べる人間が存在しているのだというものであった。とはいえ、あらゆる点においてではない。人間の優しさ、家庭的な愛情、器用さなどが認められないわけではない。しかしながら彼らは国民としては悪魔的精神に捕らえられ、それによって何年もの忍耐を経て下等動物の性質とある程度類似するように自らを造り替えるよう追い込まれたのだ。」
 軽業興業は、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカ、オーストラリアなどでも行われた。
 
●日本人村(p68)
 1885年1月10日から、ロンドンのナイツブリッジで日本人村の興行が始まる。
 「日本の意匠や様式で建てられた店舗、住居、茶店、および寺院だけではなく、日本の土着の工芸家や職人および彼らの家族をまとめてこの国に運び込み、ロンドンの中心部にできた小さな植民地に移植するという、今までにない思い付きが周到かつ上品に実行に移された。」(『タイムズ』紙)
 舞台が設えられ、軽業、足芸、綱渡り、相撲、チョンナキ踊りなども演じられた。
 入場料は1シリング。開幕4か月で25万人が来場した。
 しかし、日本人村は火災で焼失、再建されたが客足は今一つであった。
 日本人村は、ギルバートとサリバンのオペラ『ミカド』にも強い影響を与えた。初日のプログラムに、「上演にあたって、ナイツブリッジの日本人村の責任者および住民の貴重なご助力を受けたことに深く感謝する」との謝辞が見える。
 マイク・リー監督の映画『トプシー・ターヴィー』(1999年)には、日本人村の女性が『ミカド』の出演者たちに演技指導しているところが描かれている。
 
●プルースト(p71)
 プルーストは、盆栽にほれ込むほど日本びいきだった。
 『失われた時を求めて』には、さまざまな日本のモノが次々と登場する。
 ・水中花遊び(鈴木道彦訳、集英社、2001年、1巻、pp.92-93)
 ・「日本趣味の七宝模様」(同1巻、p.299)
 ・「日本の墨絵のような影」(同1巻、p.391)
 ・「日本の屏風に描かれているような」(同5巻、p.178)
 ・「銀色の地に日本画の手法で描かれたノルマンディのリンゴの木」(同12巻、p.13)
 
(2017/6/24)KG
 
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アイヌ100人のいま
 [芸術]

宇井眞紀子/著
出版社名:冬青社
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-88773-180-6
税込価格:4,000円
頁数・縦:119p・21×24cm
 
 今を生きるアイヌ100人(組)のポートレートを撮影した写真集。被写体は、撮られた人が次の人を紹介するというリレー方式で選ばれ、その人の好きな衣装で、好きな場所で撮影することをコンセプトとする。
 各人の「今一番言いたい事」が巻末に添えられている。それらを読むと、差別に耐えながら明るく楽しく生きようとするアイヌの人たちの強さと、民族の誇りが伝わってくる。素敵な人たち!
 なぜか英訳付き。
 
【著者】
宇井 眞紀子 (ウイ マキコ)
 1960年千葉県生まれ。1983年武蔵野美術大学卒業。1984年~写真家・樋口健二氏に師事。1985年日本写真芸術専門学校卒業。卒業と同時に雑誌を中心にフリーランスで活動を開始。1992年子連れでアイヌ民族の取材をはじめる。1999年東京の廃線跡の取材をはじめる。2004年第4回さがみはら写真新人奨励賞受賞。2012年第28回東川賞特別作家賞受賞。公益社団法日本写真家協会会員。日本ビジュアル・ジャーナリスト協会会員。日本写真芸術専門学校講師。
 
(2017/6/20)KG
 
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いまの世界をつくった世界史の大事件30
 [歴史・地理・民俗]

いまの世界をつくった世界史の大事件30
 
関眞興/著
出版社名:宝島社
出版年月:2016年9月
ISBNコード:978-4-8002-5809-0
税込価格:1,080円
頁数・縦:319p・19cm
 
 
 重大事件を中心に近現代の世界史を通観する。
 
【目次】
第1章 18~19世紀
 イギリス政界まで巻き込んだ異常な投機熱―南海泡沫会社事件《1720年、イギリス》
 独立革命につながるアメリカの権利意識―ボストン=ティー=パーティー事件《1773年、アメリカ13州》
 フランス革命のきっかけになった市民たちの暴動―バスティーユ襲撃事件《1789年、フランス》
 産業革命によって生まれた賃金労働者の不満を表明した―ラッダイト運動(事件)《1811年、イギリス》
 戦争の発端となったビスマルクの電報改竄―エムス電報事件《1870年、プロシア》
 反ユダヤ感情を増幅させた仏近現代史上最大の冤罪事件―ドレフュス事件《1894年、フランス》
 朝鮮進出を図る日本が打った残虐な一手―閔妃暗殺事件《1895年、李氏朝鮮》
 「扶清滅洋」を掲げ、外国勢力の排除を目指した―義和団事件《1900年、中国》
  
第2章 20世紀前半
 民衆の素朴な崇敬を粉砕したツァーリの銃弾―血の日曜日事件《1905年、ロシア帝国》
 どの国も望んでいなかった第一次世界大戦の引き金―サライェヴォ事件《1914年、オーストリア=ハンガリー帝国》
 オスマン帝国の崩壊に続く近代化への途中で起こった―タラート=パシャ暗殺事件《1921年、オスマン帝国》
 民主主義の象徴が焼け落ち、ナチス独裁のきっかけに―国会議事堂放火事件《1933年、ドイツ》
 永久革命論とスターリンの一国社会主義との対決―トロツキーの暗殺《1940年、ソ連》
 インド現代史における「非暴力主義」のゆくえ―ガンディー暗殺事件《1948年、インド》
 「約束の地」を求めたユダヤによるアラブへの攻撃―デイル=ヤシーン村虐殺事件《1948年、イスラエル》
 戦後のアメリカで突如吹き荒れた「赤狩り」の嵐―ローゼンバーグ事件《1950年、アメリカ》
 
第3章 20世紀後半
 南アフリカの「アパルトヘイト」に対する不満が爆発―シャープビル虐殺事件《1960年、南アフリカ》
 アメリカがカストロ政権の転覆を狙ってキューバに侵攻―ピッグス湾事件《1961年、キューバ》
 インドネシアで突如起こったクーデターと共産党弾圧―9・30クーデター《1965年、インドネシア》
 ド=ゴールの時代に起きた新しい世代の叛乱―フランス五月革命《1968年、フランス》
 中国とソ連が国境となる川中の島を巡って武力衝突―ダマンスキー島衝突事件《1969年、ソ連》
 イラン革命後に元国王の引き渡しを求めた民衆―アメリカ大使館占拠事件《1979年、イラン》
 南米エル=サルバドルで人権尊重を求めたカトリック福者―ロメロ神父狙撃事件《1980年、エル=サルバドル》
 「筋金入りの抵抗者」の教皇が率いるヴァチカン市国―ヨハネ=パウロ2世暗殺未遂事件《1981年、ヴァチカン市国》
 自由化を求めた学生デモに対する無差別発砲―天安門事件《1989年、中国》
 保守派によるクーデター未遂はやがてソ連崩壊へと導く―ゴルバチョフ軟禁事件《1991年、ソ連》
 第二次世界大戦後、ヨーロッパで最大のジェノサイド―スレブレニツァ虐殺事件《1995年、ボスニア=ヘルツェゴビナ》
 
第4章 21世紀
 アメリカと中東世界が起こした「文明の衝突」の悲劇―9・11同時多発テロ《2001年、アメリカ》
 「世界最悪」の悲劇・コンゴ紛争とアフリカ大戦―ローラン・カビラ暗殺事件《2001年、コンゴ民主共和国》
 ウクライナを脅かす21世紀ロシアのナショナリズム―クリミア半島併合事件《2014年、ウクライナ》
 
【著者】
関 眞興 (セキ シンコウ)
 1944年、三重県生まれ。東京大学文学部卒業後、駿台予備校世界史講師を経て、著述家。
 
【抜書】
●バスティーユ監獄(p34)
〔 この後、フランスは革命の長い混乱に入っていく。発端となったバスティーユ監獄は、フランス絶対主義の象徴のように言われるが、この時、政治犯の収容者は一人もおらず、文書偽造犯4人、精神病患者が2人、素行不良の貴族1人の計7人であった。しばしば話題になるマルキ=ド=サドは10日ほど前に他の施設(修道院)に移されていた。
 ということで、じつはバスティーユ監獄に、直接的には「絶対主義の象徴」としての意味はなかった。しかしこの事件が「フランス革命史」で強調されるのは、それまで特権階級の間でおこなわれていた「革命」に市民が直接介入したことと、この事件が瞬く間に全国に伝えられたことにより、全国的な革命状況を生み出す契機になったことにある。〕
 つまり、市民たちは武器と弾薬を奪いに行ったのである。
 
●アルメニア(p116)
 カスピ海と黒海の間をさすコーカサス地方にある3国の一つ。他は、ジョージアとアゼルバイジャン。
 アルメニア人は、インド=ヨーロッパ系の言語を話す民族。キリスト教。初めてキリスト教を国教化した民族としても知られる(301年)。祖国アルメニアは300万人あまりの人口だが、ヨーロッパに50万人、アメリカに80万人余りがいるという。
 商才にたけ、「コーカサスのユダヤ人」と呼ばれることもある。
 
●アラブ人(p153)
 アラブ……アラビア語を話すイスラム教徒。アラビア語は、もともとアラビア半島の住民の言葉だった。イスラム教徒は「アラビア語でコーランを読まなければならない」というイスラム教の基本原理がある。
 
●アフリカの年(p181)
 17の独立国が誕生した1960年を、国連は「アフリカの年」と評した。
 
●5月35日(p260)
 1989年、天安門事件。6月4日未明、李鵬の指示によって人民解放軍が鎮圧活動を開始した。天安門広場に集まっていた学生・市民たちに対し、無差別に発砲、多くの死傷者が出た。政府発表は319人。数万の死傷者が出たとの意見もある。
 インターネットでは、「6月4日」という言葉を含むものはすべて遮断されるため、「5月35日」などの隠語を生んでいる。
 
●イスラム教(p289)
 〔イスラム教は純粋な宗教であり、政治的な宗教でもある。〕
 教義は、「六信五行」と単純。
 イスラム教には聖職者がいない。ただし、それに対応する法学者がいて、宗教上・生活上の問題は『コーラン』に戻って解説してくれる。世俗的な法体系を作り上げるのではなく、法体系の原点が『コーラン』。〔日常生活そのものが宗教生活であり、宗教がそのまま日常である。〕
 
(2017/6/18)KG
 
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世界と日本がわかる最強の世界史
 [歴史・地理・民俗]

世界と日本がわかる 最強の世界史 (扶桑社新書)
 
八幡和郎/著
出版社名:育鵬社(扶桑社新書 230)
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-594-07640-5
税込価格:929円
頁数・縦:311p・18cm
 
 
 日本との関連を捉えながら古代から現代までの世界史を通観する。
 
【目次】
第1章 人類・神話・民族
第2章 ローマ・ペルシャ・秦漢帝国
第3章 仏教・キリスト教・イスラム教
第4章 民族移動・宗教政治・商人の活躍
第5章 成吉思汗・ルネサンス・オスマン帝国
第6章 大航海時代・アメリカ・宗教改革
第7章 ウェストファリア体制・絶対王制・大清帝国
第8章 アメリカ独立・フランス革命・大英帝国
第9章 世界大戦・社会主義・ファシズム
第10章 国家独立・市場経済・グローバリズム
 
【著者】
八幡 和郎 (ヤワタ カズオ)
 1951年滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学大学院教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。
 
【抜書】
●帝国(p32)
 世界でただ一人だけ、エンペラーを名乗っているのは日本の天皇。
 ヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、ロシアの皇帝が、第一次世界大戦とその時期の革命でいなくなった。
 ソロモン王とシバの女王の子孫とされるエチオピアのハイエセラシエ(ハイレ・セラシエ)帝も、1974年に革命によって廃位させられた。
 しかし、帝国主義とか大英帝国といったように使われるときの「エンパイア(帝国)」というのは、多数の国とか民族を束ねた政治形態のことをいう。君主が皇帝を名乗っているかどうかは関係ない。
 帝国のはしりは、紀元前7世紀にメソポタミアからエジプトまでを統一した、アッシリア。
 完成形にしたのは、紀元前6世紀にダレイオス1世(在位前522-前486)のもとで全盛期を迎えたアケメネス朝ペルシャ。インド北西部からマケドニアやルーマニア、エジプトまで領土が及んだ。
 ペルシャの制度は、それを滅ぼしたアレクサンドロス大王の帝国に引き継がれ、さらにローマやインドのアショーカ王の帝国もその伝統を受け継いでいる。
 
●朝鮮半島(p58)
〔 しばしば、日本が半島から文明を学んだという言い方がされますが、根拠はありません。稲作が本格化する条件も温暖な日本のほうが整っています。あとで書くように6世紀あたりに百済を通じて中国の文化を輸入する時代がありましたが、ほかの時代にもそれと同じようなことがあったわけではありません。〕
 
●「何も学ばず、何も忘れず」(p178)
 クロムウェルが59歳で死んだとき、死刑にしたチャールズ1世の息子で大陸に亡命していたチャールズ2世を迎えて王政復古を選んだ。
 ただ、彼らは大陸から「何も学ばず、忘れず」に帰ってきたので、人々に嫌われた。結果、チャールズ2世の弟であるジェームズ2世は、名誉革命(1688年)で追放され、娘のメアリとその夫でプロテスタントだったオランダ総督オレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)が共同君主として迎えられた。
 フランスが戦争に負けて、ナポレオンが地中海のエルバ島に流されたとき、亡命者たちは「何も学ばず、何も忘れず」に帰ってきた。ルイ16世の弟がルイ18世になった。(p204)
 
●セオドア・ルーズベルト(p244)
 セオドア・ルーズベルト(在任1901-09)は、軍事的な圧力を背景に、「静かに歩いていても、棍棒を持ってさえいれば遠くに行ける」ということをモットーにしていた。
 パナマ運河を建設するためにコロンビア国内の分離派を巧妙に仕掛けたことを理想主義者は非難したが、「運河を建設する前に半世紀も議論するよりも、建設してから私の処置について半世紀議論したほうがましだ」と反論した。
 
●中国(p308)
 〔中国は政治・経済・社会・文化などいずれをとっても巨大な開発途上国にすぎません。もし、21世紀が後進文明国のヘゲモニーのもとに置かれるなら、人類にとってこのうえない不幸はないのです。〕
 
(2017/6/3)KG
 
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理化学研究所 100年目の巨大研究機関
 [自然科学]

理化学研究所 100年目の巨大研究機関 (ブルーバックス)
 
山根一眞/著
出版社名:講談社(ブルーバックス B-2009)
出版年月:2017年3月
ISBNコード:978-4-06-502009-8
税込価格:1,015円
頁数・縦:238p・18cm
 
 
 2017年は、理化学研究所が設立100周年を迎えた。その歴史を振り返りつつ、最先端の研究現場をレポート。
 
【目次】
第1章 113番元素が誕生した日
第2章 ガラス板の史跡
第3章 加速器バザール
第4章 超光の標的
第5章 100京回の瞬き
第6章 スパコンありきの明日
第7章 生き物たちの宝物殿
第8章 入れ歯とハゲのイノベーション
第9章 遺伝子バトルの戦士
第10章 透明マントの作り方
第11章 空想を超える「物」
 
【著者】
山根 一眞 (ヤマネ カズマ)
 ノンフィクション作家。1947年東京都生まれ。獨協大学国際環境経済学科特任教授、宇宙航空研究開発機構(JAXA)客員、理化学研究所相談役、福井県文化顧問、日本生態系協会理事、NPO子ども・宇宙・未来の会(KU-MA)理事、3・11支援・大指復興アクション代表などを務める。
 
【抜書】
●高峰譲吉(p47)
 高峰譲吉(1854-1922)……理研設立の牽引役。工学・薬学博士。1890年(明治23年)渡米。消化剤のタカジアスターゼと、副腎髄質から分泌されるホルモンのアドレナリンの製造法の開発者。「日本が生んだ偉人の一人」。
 米国時代の経験から、「これからの世界は理化学工業の時代になる。日本が理化学工業によって国を興そうというのであれば、その基礎である理化学の研究所を設立する必要がある」と熱く説いた。
 当時の日本の工業は欧米の模倣で成り立っており、独創性に乏しかった。日本でも、欧米に負けない大規模な理化学の基礎研究所を作るべきだと訴えた。
 日本を代表する科学者たちと構想を煮詰め、実業家や三井、三菱などの財閥から資金を集め、さらに国庫から補助金を得る法整備もなされた。
 1917年(大正6年)3月20日、駒込に4万平方メートルの土地を得て、財団法人理化学研究所として発足。
 
●大河内正敏(p48)
 大河内正敏(1878-1952)……1921年、42歳の若さで理研研究員から所長に抜擢された造兵学者で貴族院議員。第一次大戦が終結、その戦後不況で資金難に直面。2本柱からなる大胆な理研改革を断行。
 (1)研究室制度……すべての研究員に同等の権限を与えて自由な研究ができるようにする。14の研究室が新設された。
 (2)研究成果の産業化……理研で生まれた特許や実用新案をもとにした企業を数多く設立し、特許実施料を収入源として研究費に充てる。成功例は、抗生物質ペニシリンとアルマイト。
 アルマイト……アルミニウムは空気に触れると薄い酸化膜が自然にできる。非常に薄く微細な穴がい開いているため(多孔質)、汚れや傷がつきやすい。鯨井恒太郎、瀬藤象二、宮田聰らのグループは、「実験の失敗」によって、無数の穴が開かない表面処理法を発明する。理研は、特許を関連業界に提供する一方、理研アルマイト工業を起業。弁当箱の素材として人気を集める。また、その技術は、印刷や機械工具、建材などでも欠かせないものとして、現在に至る。
 
●主任研究員制度(p58)
 大河内は、1922年、それまでの物理学部と化学部からなる制度を廃止、「主任研究員制度」を発足させる。今に至るまで続いている理研の伝統、主流。研究者が独立して自由に研究室を運営できるシステム。研究テーマを自由に選べ、予算や人事の裁量権も持つ。研究室は一代限り。新しい分野を常に開拓していこうという精神の表れ。
 
●仁科芳雄(p60)
 原子核物理学者の仁科芳雄(1890-1951)は、1937年と1944年、2台のサイクロトロンを完成させた。
 岡山県出身、東京帝国大学の電気工学科を卒業、理研に入ったのち、英国、ドイツに留学し、最新の量子力学などを学ぶ。さらに、デンマークの原子物理学者ニールス・ボーア(1885-1962年。1929年にノーベル物理学賞受賞)の研究室で5年間を過ごした。
 敗戦により、2台のサイクロトロンは「原子爆弾製造施設」と誤認され、GHQによって解体・廃棄させられる。
 
●株式会社科学研究所(p63)
 1946年、仁科が所長に就任。GHQによる「過度経済力集中排除」、いわゆる財閥解体指令により、解散させられる。しかし、仁科の尽力により、「株式会社科学研究所」として生き延びる。事業の柱は医薬品。ペニシリンやストレプトマイシンの製造販売などを行う。かつて不治の病だった結核は、ストレプトマイシンの登場によって治る病となった。
 1958年、特殊法人理化学研究所が設立、戦前の理研を引き継いで再スタート。初代理事長は、長岡半太郎の子息である長岡治男。歴代の所長、理事長で、唯一事務系出身。三井不動産の常務取締役などを歴任したビジネスマン。
 
●特定国立研究開発法人(p70)
 2015年4月、松本紘(ひろし:宇宙科学工学者、元京都大学総長)が理事長に就任、全く新しい組織として再発足する。物質・材料研究機構、産業技術総合研究所とともに、「特定国立研究開発法人による研究開発等の促進に関する特別措置法」により、2016年10月、「特別国立研究開発法人」となる。
 
(2017/6/3)KG
 
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