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文明の海洋史観
 [歴史・地理・民俗]

文明の海洋史観 (中公文庫)

川勝平太/著
出版社名:中央公論新社(中公文庫 か58-2)
出版年月:2016年11月
ISBNコード:978-4-12-206321-1
税込価格:994円
頁数・縦:356p・16cm


 1997年に中公叢書の1冊として刊行された同名書の文庫版。加筆はなく、「文庫版へのあとがき」にて刊行後の状況などを解説。

【目次】
序 新しい歴史像を求めて
起之章 「鎖国」と近代世界システム
承之章 歴史観について
転之章 文明の海洋史観
結之章 二十一世紀日本の国土構想―西太平洋の「豊饒の半月弧」に浮かぶ“庭園の島(Garden Island)”
跋 新しい生き方を求めて

【著者】
川勝 平太 (カワカツ ヘイタ)
 昭和23(1948)年、京都生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業、早稲田大学大学院経済学研究科博士課程修了。昭和60(1985)年、オックスフォード大学から博士号取得。早稲田大学政治経済学部教授、国際日本文化研究センター教授、静岡文化芸術大学学長をへて、平成21(2009)年より静岡県知事。平成8年『富国有徳論』でアジア太平洋賞(特別賞)、平成10年『文明の海洋史観』で読売論壇賞を受賞。

【抜書】
●勤勉革命(p18)
 近代世界システム=産業革命……資源消費型、資本集約型。
 近世江戸社会=勤勉革命……資源節約型、労働集約型。

●知恵蔵(p21)
 〔世界大の諸問題に大国日本は無関心を装える立場にはない。問題解決に貢献しなければならない。そのために迂遠のようだが、近世江戸社会をグローバルな観点から見直すことに、鍵があるように思われる。気づかれていないが、近世江戸社会の知恵蔵はまだ半開きである。グローバルな観点からその知恵蔵を開けるときがきたように思われる。〕

●醤油(p39)
 日本は、醤油のお陰で、東南アジアの香辛料に頼らずに済んだ。世界のほとんどの地域の料理には、香辛料が必要。
 醤油は、鎌倉時代に日本で独自に発明された。禅僧が中国からもたらした径山(金山)寺味噌製造過程で出る溜(たまり)を改良。室町時代以降に広く普及する。

●14世紀の危機(p49)
 ウォーラーステイン『近代世界システム』。ヨーロッパ世界経済は1450~1640年頃に大西洋を囲む大陸で中核、半辺境、辺境の三重構造をもって成立する。その原因は、14世紀のヨーロッパ全域に起きた「危機」である。
 14世紀の危機……技術進歩のない封建制の元での土地の疲弊、戦争の勃発、14世紀半ばからヨーロッパ全土を間欠的に襲った疫病。
 14~15世紀、ユーラシア大陸は寒冷な気候だった。
 疫病説……マクニール。ヨーロッパの人口の三分の一が失われた。信心深き者も神に仕える者も無差別に襲った疫病は、中世の権威であった宗教に対する懐疑を生み、その原因を求める中から近代の科学精神の土台が作り出された。また、薬として利用されていた胡椒や香辛料を求めて地理上の拡大がもたらされた。

●イスラムの湖水(p182)
 アンリ・ピレンヌ(1862-1935)、ベルギーの歴史家。「マホメットとシャルルマーニュ」(佐々木克巳編訳『古代から中世へ』創文社歴史学叢書、1975年)。
 ヨーロッパ古代と中世との画期は、北方の蛮族によるローマ文明の破壊ではなく、南方から襲ったイスラム勢力の外圧である。地中海は、古代にあっては「ローマの湖」だったが、中世には「イスラムの湖水」になり、ヨーロッパは閉め出された。
 シャルルマーニュ率いるキリスト教軍がツール・ポアチエの戦い(733年)でイスラム軍を破り、両者はピレネー山脈を挟んで対峙することになった。ヨーロッパは、陸地に閉じ込められることになり、文化的統一体としての形を整えた。それが中世。「イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかっただろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」(ピレンヌ)。
 フランク帝国は9世紀から11世紀まで封鎖状態に置かれた内陸国家だったので、必然的に土地が唯一の富の源泉となる新しい経済秩序すなわち封建制を生み出さざるを得なかった。

●倭寇の時代(p195)
 14~16世紀の300年間は、倭寇の時代。元寇の失敗で、中国はシナ海の制海権を失い、日本が海洋進出する。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗により、海洋志向が終焉。
 関ケ原の合戦(1600年)により、海洋志向の西軍が陸地志向の東軍に敗れる。⇒ 鎖国、海禁へ

●港市システム(p211)
 15~16世紀の東南アジア海域は、アラブ・イスラム文明、ヒンズー文明、中華文明等から多数の商人がそれぞれの文明の諸物産を持って訪れ、「商業の時代」を現出した。
 東南アジアの海洋ネットワークは「港市(port of trade)」システムと呼ばれる自由な交易システム。
 18世紀後半から東南アジアに進出したイギリス商人(カントリー・トレイダー)は、港市システムに倣い、本国政府に向かって自由貿易を主張、東インド会社の貿易独占に反対して、ついに解散に追いやった。彼らはイギリスの自由貿易の担い手になる。ジャーディン・マセソン、スワイヤーなど。
 自由貿易の原型は東南アジア。

●太平洋=多島海(p223)
〔 西太平洋は、日本のほか、フィリピンやインドネシアなど、世界で最も多くの島からなる世界である。それはまさに島的世界である。島は海を存在の条件としており、さまざまな陸地世界とさまざまな海域世界を併せ持つ世界として太平洋は「多島海」と言えるだろう。アメリカも中国も、ますます自己完結できなくなり、相互依存のネットワークのなかに組み込まれ、太平洋全体が多島海的世界として形成される可能性が高い。〕

●無主(p225)
〔 情報革命は近代のパラダイム転換を生むものと予想される。まず、私的所有権が富国の基礎であった「近代」が終わる可能性がある。情報は分けても減らず、分けると増えつつ共有される。情報は個人の排他的な所有には適さない。情報は共有を志向する。情報に関わる権利・義務関係や私的所有権の脈絡で「知的所有権」として議論されているが、情報の帰属は所有権として処理するのはなじまない。現在進行中の情報化の波は近代のパラダイムを支えてきた私的所有権の根幹をゆるがす可能性をはらんでいる。なぜなら、情報や知識は譲渡によってはなくならないし、不動産や動産(物)のような形がないので、移動の事実を確定しがたいからである。また、新しい情報の帰属権が誰にあるかを決定するのも、情報の所有権の侵害を防止したり確認するのも、容易ではない。情報はより多くの人に所有(共有)される運動をはらんでいる。いいかえれば、誰の排他的所有にもならないことを本質とする情報は、無主であることを求める。それは海洋のもっている性質に近い。そのひろがりはグローバル(地球大)である。地球大に広がりうるものは、すべての者のものであるとともに、誰のものでもない。高度情報化によって社会内部、社会間のネットワークの密度が濃くなることが、陸に根を張ることによってある種の排他的性格をもっている陸地史観の歴史像をなしくずしにしていくであろう。文明の海洋史観の試みはこのような地球時代的状況と無縁ではない。〕

●『東西文明之調和』(p232)
 大隈重信は、晩年、「東西文明の調和」をとなえ、それを実践するために1908年に大日本文明協会を創設し、数百巻の文明叢書を刊行した。
 〔佐藤能丸『近代日本と早稲田大学』(一九九二年 早稲田大学出版部)によれば、明治初期の明六社、自由民権期の共存同衆の活動の比ではなく、世界文明の発展に寄与しうる国民を育成しようとした国民的文化運動であった。〕
大隈重信『東西文明之調和』1922年。大隈没年の出版。おもにギリシャ・ローマ文明に対し、東洋古代の仏教・儒教を意識。東洋文明は精神文明として自覚されている。
 脱亜入欧の福沢諭吉とは対照的。

●敗戦(p269)
 日本は、戦争で負けた相手国のシステムを受容し、相手から離脱して自立するという過程を繰り返してきた。
 ① 白村江の海戦で唐に敗れ、「倭国」が滅び、唐の政治システムを取り入れて「日本」という国号を定めた。天皇の称号を作り、都城制、律令、正史という唐の政治システムの三本柱を入れた。
 ② 秀吉が日明戦争で敗れると、明の経済システムを入れて、中国に勝る経済社会を作り上げた。
 ③ 薩英戦争、下関戦争で敗れると、西欧の軍事システムを取り入れた。海軍はイギリス流、陸軍はフランス流→ドイツ流。普仏戦争でフランスが敗れたことにより転換。
 ④ 第二次世界大戦後は、アメリカの生活文化、民主主義を取り入れた。

(2017/4/15)KG

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忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち
 [歴史・地理・民俗]

忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち

高尾善希/著
出版社名:KADOKAWA
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-04-400208-4
税込価格:1,836円
頁数・縦:315p・19cm


 「伊賀者」松下家に江戸時代より代々伝わる古文書をもとに、江戸の下級武士「御家人」の生活をたどる。
 資料の大部分は、松下家5代目の菊蔵(善左衛門)によるもの。明屋敷番、西之丸山里番、西之丸御広敷御用部屋書役、本丸御広敷御用部屋書役、御簾中(徳川家治正室五十宮倫子〈いそのみやともこ〉)御侍、御台所(五十宮倫子)御広敷添番などを務めた。真面目で筆まめな人であったようである。彼のお陰で、松下家は伊賀者(羽織袴格)から昇進して常裃格へとなった。しかし、家禄は20俵2斗6升2合5勺二人半扶持のままであった。

【目次】
第1章 伊賀者とは何か
第2章 松下家、草創の時代
第3章 谷の中の伊賀者たち
第4章 最初の養子、松下伊太夫
第5章 伊賀者から大奥の事務官へ
第6章 伊賀者からの離脱

【著者】
高尾 善希 (タカオ ヨシキ)
 1974年2月、千葉県千葉市生まれ。立正大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導修了満期退学。博士(文学)。元東京都公文書館史料編さん係専門員(専務的非常勤職員)。元武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館学芸員(嘱託)。現在、立正大学文学部史学科非常勤講師。そのほか、首都圏各地で歴史講座・古文書講座の講師を務める。専門は徳川時代史。

【抜書】
●紀州伊賀者(p24)
〔 七代将軍徳川家継没後、紀州藩主であった八代将軍徳川吉宗が徳川将軍家を継承したおり、吉宗は紀州藩士のいくらかを幕臣として召し抱えた。その中に伊賀者に編入された者たちもいた。彼らは伊賀国出身の家系をもたない者であり、れっきとした紀州人である。伊賀者は役職名であるから、紀州人が伊賀者になったとしても差し支えないのである。このいわゆる「紀州系伊賀者」は、やがて分派して御庭番となり、幕府の諜報活動に従事するようになった。〕深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』中公新書、1992年。

●御新造様(p29)
 御目見以上(大名、旗本)……当主=殿様、その妻=奥様。召使やその他の下の身分の者からの呼称。
 御目見以下(御家人)、陪臣、浪人……当主=旦那様、その妻=御新造様。

●伊賀国(p41)
〔 そもそも伊賀国・近江国甲賀郡は、地侍層がひしめいて存在する地域であり、彼らは忍者として、その地域の中で闘争や、他国への軍事的な出稼ぎによって活動していた。伊賀者・甲賀者は時に互いに戦うことはあったものの、交誼を結ぶことが多く、通婚関係もあった。
 伊賀国は中世城郭が六一九も確認されており、分布密度は全国一であるという(近江甲賀群も同様の地域である)。伊賀国はどの大名領にも属さない、独立性の高い地域として知られ、「惣」という地侍層による自治運営がなされていた。〕

(2017/4/5)KG

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縄文時代史
 [歴史・地理・民俗]

縄文時代史

勅使河原彰/著
出版社名:新泉社
出版年月:2016年9月
ISBNコード:978-4-7877-1605-7
税込価格:3,024円
頁数・縦:334p・20cm


 縄文時代を総合的に知るための基本教科書。図版も多く、説明もわかりやすい。

【目次】
1 縄文文化の誕生
 最終氷期の環境変動
 「草創期」という時代
  ほか
2 縄文人の生活と生業
 竪穴住居の出現と定住集落の形成
 新しい環境の創造
  ほか
3 縄文人の社会
 住居の営みと集落の仕組み
 集落と村落のつながり
  ほか
4 縄文文化の発展と限界
 縄文文化の広がり
 東西日本の地域差
  ほか
5 縄文から弥生へ
 日本列島の自然と農耕の条件
 農耕社会の形成
  ほか

【著者】
勅使河原 彰 (テシガワラ アキラ)
 1946年、東京都生まれ。1975年、明治大学文学部卒業。文化財保存全国協議会常任委員。第2回尖石縄文文化賞、第13回藤森栄一賞受賞。

【抜書】
●花綵列島(p10)
 花綵……はなづな。細紐で花を結んでつくった花飾り。
 大小の島々が花綵のように連なった日本列島を、花綵(かさい)列島と呼ぶ。

●1万1500年前(p18)
 完新世の初頭、1万1500年前までには、日本列島は完全に大陸から離れて島国となった。

●縄文の時代区分(p36)
 ※国際標準暦年較正曲線に基づく較正年代。
 16,000年前--------------------------
       草創期(旧石器時代)
 11,500年前--------------------------
       早期
 7,200年前---------------------------
       前期
 5,400年前---------------------------
       中期
 4,400年前---------------------------
       後期
 3,000年前---------------------------
       晩期
 2,700年前---------------------------
       弥生時代

●労働時間(p79)
 カラハリ砂漠のサン……女:毎日1~5時間。男:週3~5日で各5~10時間、食料の獲得のために外出。男女平均で1日4時間39分。実際に猟や採集に出かけても、木陰に涼を求める時間も多い。
 オーストラリアのアボリジニ……食料の獲得に費やす時間は、男女で平均4時間30分程度。

●漆(p108)
 早期の頃から、刳物(くりもの)の木製食器が使われていた。
 さらに、前期前半の土器の下地に赤漆を塗り、その上に黒漆で繊細な幾何学文様を描いた彩文土器が出土している。山形県東置賜郡高畠町の押出(おんだし)遺跡。福井県の鳥浜貝塚や、小田原市の羽根尾貝塚などでも、前期の漆塗りの櫛とともに漆塗りの土器が出土。
 縄文人は、定住するようになって豊富な種類の容器類を多量に持つようになり、漆塗りで美しく飾るようなった。

●植物利用(p121)
 早期……アサ、ヒョウタン、エゴマなどの栽培植物を縄の繊維や容器、調味料などに利用。
 前期……ツルマメ(ダイズの野生種)やヤブツルアズキ(アズキの野生種)、ヒエ属。
 中期……栽培ダイズやアズキ、ヒエに相当する大きさの穀物。

●大湯遺跡、環状列石(p185)
 秋田県鹿角市の大湯遺跡。万座と野中堂と呼ばれる二つの環状列石が、約130mの距離をおいて東西に対峙。
 万座……48基の組石。
 野中堂……44の組石。
 全体として組石が二重の同心円状(外帯と内帯)に配置されている。外帯の配石の外側に掘立柱建物跡群がめぐっている。組石の下に墓抗。
 また、環状列石の周辺には、大規模な集落が存在しない。周囲に点在する複数の集落の人々によって営まれた、縄文後期の共同墓地だと考えられる。
 大型の環状列石は、後期から晩期前半の東日本に盛行。
 集落が大型化し、やがて分散化される。その中心となる場所に環状列石が作られた。分散した氏族としての結束を高め、村落の維持を図った。

(2017/3/21)KG

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戦国「境界大名」16家 なぜ、あの家は近世大名として生き残れたのか
 [歴史・地理・民俗]

戦国「境界大名」16家 (歴史新書)

 榎本秋/著
出版社名:洋泉社(歴史新書)
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-8003-1137-5
税込価格:972円
頁数・縦:239p・18cm


 「境界大名」とは、近隣の大大名家に挟まれ、圧迫され、「境界」に身を置かざるをえない中小の大名を指す。本書の著者の命名である。
 戦国時代を「境界大名」として生き残り、無事に(?)明治維新を迎えた16家の軌跡をたどる。そこには幾多のドラマがある。

【目次】
1 御家断絶から再興を成し遂げる
 井伊氏 遠江国―数多の危機を乗り越えた末の異例の出世
 亀井氏 出雲国―主家再興を目指した宿敵・毛利氏との死闘
 諏訪氏 信濃国―甲斐の虎・信玄に翻弄された元名門武家
2 周辺勢力と戦い続けて生き残る
 真田氏 信濃国―次々と主君を変えながら勢力を拡大
 相馬氏 陸奥国―奥州第一の実力者・伊達氏との多年に渡る抗争
 相良氏 肥後国―群雄割拠の九州において島津氏に立ち向かう
3 大大名の間を渡り歩いて成り上がる
 水野氏 三河国―織田・松平・今川の狭間で動乱を生き抜く
 奥平氏 三河国―幾度もの主君変えのなか訪れた運命的活躍の場
 有馬氏 肥前国―肥前国支配を目指し勢いづく龍造寺氏との戦い
4 悲願の旧領奪還を勝ち取る
 遠山氏 美濃国―宗家滅亡後も続いた旧領奪還に向けた一族の戦い
 伊東氏 日向国―北の大友、南の島津との間で起きた絶頂と転落
 小笠原氏 信濃国―信長・秀吉・家康の元で領国への復帰を目指す
5 独自の役割を盾に生き残る
 宗氏 対馬国―朝鮮半島との境界で秀吉・家康相手に立ち回る
 松浦氏 肥前国―海外との窓口の地で独立勢力として駆け抜ける
 柳生氏 大和国―激動の大和国にあって一芸によって活路を見出す

【著者】
榎本 秋 (エノモト アキ)
 東京都生まれ。WEBプランニング、ゲーム企画、書店員を経て、現在は著述業。

【抜書】
●大村純忠(p154)
 日本初のキリシタン大名。
 1563年(永禄6年)、イエズス会の宣教師により、キリスト教へ入信。「バルトロメウ」の名をもらう。
 もともと、ポルトガル船が来航するのは、松浦氏が支配する平戸だった。しかし、ポルトガル人が殺される事件なども起き、関係が悪くなった。純忠は、ポルトガル貿易の利を求めてポルトガル船に港を開いた。永禄8年、福田浦(長崎市)。その後、長崎浦(長崎市)が開港、イエズス会に寄進される。
 大村純忠は、有馬晴純の子。大村純前(すみさき)は無理強いされて純忠を大村家の養子に迎え、家督を譲る。

●興福寺(p229)
 室町時代、大和国には武家の守護が置かれていなかった。古来より法相宗の大本山たる興福寺(こうふくじ:奈良市)があり、武力も有していたため、幕府が守護を配することができなかった。
 しかし、戦国時代に興福寺の支配が揺らぎ、興福寺宗徒や国人たちが割拠を始めた。そのなかで頭角を現したのが、宗徒出身の大名、筒井氏。

(2017/3/15)KG

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平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世
 [歴史・地理・民俗]

平安京はいらなかった: 古代の夢を喰らう中世 (歴史文化ライブラリー)

桃崎有一郎/著
出版社名:吉川弘文館(歴史文化ライブラリー 438)
出版年月:2016年12月
ISBNコード:978-4-642-05838-4
税込価格:1,944円
頁数・縦:276p・19cm


 平安京は、唐や新羅との対抗上、律令制に移行するために造られた都だったが、規模が大きすぎ、不要な施設も多く、1200年を通して結局は完成を見ず、無駄な都市であった……。

【目次】
中世からは見えない中世京都―プロローグ
平安京の規格と理念
 古代のミヤコと中国の都城―律令国家が求めたもの
 平安京の規格―座標系に投影された身分秩序の写像
 日本の身分制度―ラベルとしての位階官職、原点としての天皇
 平安京の構造と身分制度―観念的な秩序の実体化
実用性なき平安京
 平安京を守る朝廷、平安京を破壊する住人
 平安京は日本の実情に合わせて造られたか
 実用性なき首相街路・朱雀大路
 外交の“舞台”としての朱雀大路
 祭礼の“舞台”としての朱雀大路
大きすぎた平安京―“平安京図”という妄想
 未完成の平安京
 衰退する右京
 成長する左京
 土地だあり余る平安京
 平安京を埋められない人口
 縮小する政務、引きこもる天皇
平安京の解体と“京都”への転生
 摂関政治と平安京の再利用―平安京の終わりの始まり
 持て余す大内裏、快適な里内裏―仮住まいに永住する天皇
 院政が捨てた大内裏―中世京都への脱皮、抜け殻としての平安京
 大内裏を諦めなかった男・信西―選択と淘汰の大内裏再建
 信西の中世国家設計と正面観主義―“背景セット”としての平安京・大内裏
内裏の適正サイズと大内裏の中世的“有効活用”―エピローグ

【著者】
桃崎 有一郎 (モモサキ ユウイチロウ)
 1978年東京都に生まれる。2001年慶應義塾大学文学部卒業。2007年慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学、博士(史学)。現在、高千穂大学商学部教授。

【抜書】
●得宗(p3)
 得宗……鎌倉幕府の執権北条氏の嫡流。執権になると相模守に任じられた。
 相模守は、得宗・執権の象徴。唐名(唐風に気取って呼んだ別称)の「相州」「相太守」は、幕府の支配者を意味した。

●律令国家(p9)
〔 平安京を生み出した日本の律令国家は、もとはといえば、唐や新羅との軍事的な緊張に対応するために造られた。しかし、律令国家の都の完成形が平安京として生まれ落ちた時、危機はとうに去っていた。これからは、唐を中心とする国家秩序と距離を置き、日本列島の中で幸福を追求した方が、この国の得られる満足度が高そうだ。そう判断した時、多くのものが不要であることに、朝廷は気づいた。
 とはいえ、かつて大々的に掲げてしまった“律令制”という看板は、もう引っ込みがつかない。それは体制面の問題でもあるし、律令制にはほかで代用できない便利な機能も多い。そこで朝廷は、“律令制” という看板(建前)を下さないまま、律令制の内実を換骨奪胎して、必要十分な最小限のシステムへと減量(ダイエット)させていった。〕

●歴代遷宮(p15)
 中国を模倣する以前の、倭の大王の宮殿は、大王が代替わりするたびに別の場所に造り替えられた。歴代遷宮。
 平安京の本質は、74代(南北朝期は北朝)もの天皇が、平安京を使い続けたことにある。つまり、代替わりによって都を移らないことが、「倭国」を卒業して「日本国」となった、国家の本質の変化。
 歴代遷宮……倭国の政府の実体は、大王個人と豪族個人の人格的なつながり、つまり1対1の個人的な人間関係の寄せ集めであった。大王が替わるたびに、政権を運営する豪族が替わる。当時、すでに豪族たちが飛鳥を中心とする地域一帯に根を下ろし、現地の人民を支配していた。大王はそこに後から登場(即位)したのであり、政権運営のためには、豪族たちに協力を要請しなければならなかった。大王と豪族の先後関係が、政権の所在地に反映された。仁藤敦史『都はなぜ移るのか』(吉川弘文館、2011年)。
 持統天皇8年(694年)に造営された藤原京より、都市が丸ごと遠方に移る「遷都」が行われた。豪族を支配地域から引きはがし、天皇の都(京)に住まわせるため。
 藤原京……近代の研究者が創作した造語。実際には新益京(あらましのみやこ)と呼ばれた。

●平安京(p31)
 東西1508丈(4501m)×南北1751丈(5226m)。
 1丈=10尺、1尺=29.844518cm。
 大路は広さ10丈(30m)、小路(こうじ)は広さ4丈(12m)。
 現在の「普通道路」は、1車線につき幅3.25m。
 大内裏(平安宮)は、東西384丈(1146m)×南北460丈(1373m)。

●条坊制(p33)
 町(ちょう)……市街地の1区画を町(方一町)という。40丈(119m)四方。
 坊……町を4×4集めた区画。坊の周囲には必ず大路が通る。坊の中を東西南北3本ずつの小路が通り、町の境界となす。

●冊封、羈縻(p89)
 布目潮渢/栗原益男『隋唐帝国』(講談社、1997)。
 冊封……現地の王を唐の皇帝が改めて王に任命することで、相手国の事実上の独立を認めながら、形式上で唐に従属させる手法。主に東アジアに対して行われた。
 羈縻……現地の王の支配を追認しつつ、唐の地方官に任命し、都督府や都護府などの唐の統治機関を現地に置いて、間接的に支配する手法。突厥など北方・西方の諸蕃に多く用いられた。

●儀礼の劇場(p103)
〔 外交も祭もともに本質が儀礼であり、その出演者たちが所作を演じる舞台として朱雀大路を用い、同時に多数の見物人が観客席として朱雀大路を用いたならば、それは街路という形をとった”劇場”と見なしてよい。そして、朱雀大路が外交・祭の時だけ使われたのならば、“儀礼の劇場”であることにこそ、朱雀大路の最大の存在意義があったことになる。しかも大嘗会は祭礼の形を取りながら、実際には天皇の即位儀礼であり、つまり新天皇の権威を誇示するための儀礼だ。そしてまた外交も、天皇率いる日本国(倭国)の国威を周辺諸国に誇示するための儀礼だ。つまり朱雀大路の存在目的は、“天皇権威を誇示する儀礼の劇場”であったと結論できる。〕
 朱雀大路は、広さ28丈(約82m)もあった。『延喜式』による。(p76)

●巷所(p107)
 巷所(こうしょ)……平安京で、街路を勝手に農地として耕したところ。街路では、牛馬の放し飼いも行われていた。

●王家(p136)
 王家……院政期の新興勢力の一つ。治天を家父長とする一家。近代の「皇族」と区別するため、「王家」と呼んでいる。
 上皇が「治天(の君)」と呼ばれて政務を執るようになると、家父長的な権力のあり方が発達した。それにより、治天とその直系親族が巨大な富を集積する最大の新興勢力となった。
 たとえば鳥羽法皇の皇女、暲子(しょうし)内親王は、女院となって八条院と呼ばれ、八条院領という巨大な荘園・所領群を相続した。
 女院(にょいん)……天皇の母や有力な皇族女性に与えられる、院=上皇と同等の待遇。

●京都御所(p254)
 両統迭立の時代、一方から他方へ天皇が替わるたびに里内裏も移動し、鎌倉後期を通じて転々とした。平安宮(大内裏)が使われることはなかった。
 建武3年(1336年)、北朝の初代、光明天皇が土御門殿(土御門内裏)という邸宅を里内裏にすると、その後は里内裏は固定され、二度と動かなくなる。1町四方の区画。今日の京都御所の原型。しかし、1401年まで、南半分には新長講堂という王家の寺院があり、半町の面積しかなかった。

(2017/2/24)KG

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格安イタリア生活 憧れの欧州で暮らせるノウハウ満載!
 [歴史・地理・民俗]

格安イタリア生活―憧れの欧州で暮らせるノウハウ満載! (アスキー新書)

御法川裕三/著
出版社名: アスキー・メディアワークス(アスキー新書 060)
出版年月: 2008年4月
ISBNコード: 978-4-04-870006-1
税込価格: 782円
頁数・縦: 196p・18cm


 ある日、妻の提案により、一念発起して家族でイタリアに移住。その顛末とイタリアでの生活を、写真とデータを添えつつ率直に描く。

【目次】
第1章 海外に移住する。その意義と利便性
 不退転の決意?イタリアに移住する
 海外移住、その現状と実情
 旅とは異なる「暮らす」の重要性
 住めば都、しかし物価高が生活を直撃する
第2章 海外住宅事情と家探し
 現地の不動産業者をまわる
 コネクション社会のネットワーク
 イタリア/欧州、住宅スタイルあれこれ
 庭・プール付きの住宅が我が家に!?
 貴族末裔の自宅とは?
第3章 移住ビザと諸手続き
 移住をするにはビザが必要?
 必要なのは滞在許可証だ
 イタリアで働くために
 将来を見据えたビザ更新
第4章 暮らし方と生活、実例多数
 国内引っ越しとは勝手が違う?海外引っ越しのあれこれ
 食料品は安いけれど、それでも節約を試みる
 自炊と外食、それぞれの楽しみ方
 PC大爆発!日本製を使う際の注意事項
 格安に利用するための航空チケット
第5章 お金と医療
 移住のための生活費
 イタリアの医療制度

【著者】
御法川 裕三 (ミノリカワ ユウゾウ)
 1967年埼玉県生まれ。大学卒業ののち、日本での放送局勤務を経て独立。オーディオ・ビジュアル雑誌や音楽雑誌、または「マックピープル」「月刊アスキー」(アスキー・メディアワークス)や「ASCII.jp」(ウェブサイト)など、メディアを問わず寄稿をするAV/ITライター兼評論家。2004年より家族を伴いイタリアはフィレンツェに移住。欧州全土を含めた情報発信を主に、幅広い活動を行っている。

(2017/2/19)

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出雲を原郷とする人たち
 [歴史・地理・民俗]

出雲を原郷とする人たち

岡本雅享/著
出版社名 : 藤原書店
出版年月 : 2016年12月
ISBNコード : 978-4-86578-098-7
税込価格 : 3,024円
頁数・縦 : 350p・19cm


 2011年4月から2016年1月まで、104回にわたり『山陰中央新報』に掲載された「出雲を原郷とする人たち」の単行本化。出雲系神社を中心に、日本各地に移住した出雲系の人々を訪ね歩く。

【目次】
筑前国
周防国
越前国
加賀国
能登国
越中国
伊予・讃岐国
備後・安芸国
紀伊国
越後・佐渡国
信濃国
岩代国
武蔵国
上野国
大和国
山城国
丹波国
播磨国
壱岐・新羅国へ

【著者】
岡本 雅享 (オカモト マサタカ)
 1967年生。島根県出雲市出身。一ツ橋大学大学院博士課程修了。福岡県立大学人間社会学部准教授。専門は社会学(多文化社会論)。

【抜書】
●野見宿禰(p20)
 相撲の始祖とされる、出雲国の野見宿禰は、土師連(はじのむらじ)の先祖。「日本書紀」による。畿内に移住後、殉死の代わりに埴輪を考案した(垂仁天皇7年、32年の条)。
 菅原道真の先祖は、アメノホヒ(14世の孫が野見宿禰)。道真の曾祖父で、大和国菅原郷に住む土師宿弥古人らが菅原に改姓。(p278)

●オオナムチ(p74)
 「所造天下(天の下造らしし)大神」オオ(大)・ナ(土地:アルタイ語系)・ムチ(貴・尊)=オオ(大)・クニ(国)・ヌシ(主)。
 出雲神話の「オオナムチ」が、ヤマト神話の「オオクニヌシ」の神名を生じさせた。

●出雲大社教(p258)
 千家尊福(たかとみ)、明治5年に第80代出雲国造(こくそう)に就任。
 明治6年に出雲大社敬神講を組織。
 明治7年、出雲大社敬神講を基に出雲大社教会を設立。
 出雲国造は、古来、移動の自由を制限される厳しい戒律が課せられてきた。明治5年に神道西部管長ともなった尊福は、これを廃止、各地を巡教し始める。

●荒川(p284)
 寛永6年(1629年)、江戸の水害を防ぐため、利根川に合流していた荒川を切り離し(瀬替え)を行う。今の熊谷市久下あたりから新しい河道を作り、和田吉野川と合わせ、入間川につないだ。和田吉野川との合流域から下流の入間川が、新たな荒川となった。

●氷川神社(p288)
 武蔵国の出雲系神社。
 氷川神社、284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)。
 久伊豆(ひさいず)神社、54社(すべて埼玉県)。
 鷲宮神社100社(埼玉県60社、東京都40社)。
 埼玉県の大宮は、「武州一ノ宮氷川大明神」の鎮座地(『東都道中分間絵図』、1810年)。「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」(『新編武蔵国風土記稿』、1828年)。「氷の川』は、「肥河(ひのかわ)』(古事記)、「簸川」(日本書紀)、現在の斐伊川。

(2017/2/5)KG

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本当はブラックな江戸時代
 [歴史・地理・民俗]

本当はブラックな江戸時代

永井義男/著
出版社名 : 辰巳出版
出版年月 : 2016年11月
ISBNコード : 978-4-7778-1780-1
税込価格 : 1,512円
頁数・縦 : 239p・19cm


 最近は理想化されて語られることの多い江戸時代の生活の実情を、当時の戯作や日記などの資料を基に赤裸々に描く。
 本書に描かれていることは極端な感じもするが、行き過ぎた理想化への反動ということだろう。 要は、江戸時代の生活は、封建制の厳格な身分社会として語られるほどにはひどくなく、かと言って今とは異なる時代背景もあり、現代ほど住みやすい社会でもなかった、ということか。

【目次】
第1章 江戸はブラック企業だらけ
 休日は年に二日しかなかった
 休暇がもらえるのは九年目
  ほか
第2章 安全ではなかった江戸の町
 危険な警察業務は庶民がになう
 町奉行所に市民を守る意識は希薄
  ほか
第3章 食の安全・安心などはなかった
 江戸の水を飲むと下痢
 旬の食材はそれしかなかったから
  ほか
第4章 きたなくて残酷だった江戸の町
 江戸はリサイクル都市だったのか
 異臭が鼻をついた裏長屋
  ほか
第5章 高い識字率のまやかし
 識字率世界一は本当か
 お寒い武士の教養、文武両道はウソ
  ほか

【著者】
永井 義男 (ナガイ ヨシオ)
 1949年福岡生まれ。東京外国語大学卒業。1997年『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞し、本格的な作家活動に入る。

【抜書】
●江戸煩い(p134)
 脚気のこと。江戸の白米偏愛が脚気をもたらした。しかも、おかずが貧弱だったため。
 江戸勤番の武士や、農村から江戸に出て商家などで奉公している者が、脚気になることが多かった。農村や国元に戻ると治った。

(2017/1/28)KG

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謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉
 [歴史・地理・民俗]

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

高野秀行/著
出版社名 : 新潮社
出版年月 : 2016年4月
ISBNコード : 978-4-10-340071-4
税込価格 : 1,944円
頁数・縦 : 350p・20cm


 納豆のルーツを求めてアジアをめぐる納豆探検ルポルタージュ。
 納豆といえば、藁にひそむ納豆菌によって発酵させられると思い込んでいたが、イチジク、シダ、笹、ビワ、桐、蕗、トチノキ……などなど、どんな葉でも納豆が作れるらしい。アジアの山岳地帯の納豆民族は、稲藁なんか使わないのだ。稲そのものがない。アジアの辺境へ取材と現地での納豆作り体験だけでは飽き足らず、武村先輩と手近な葉っぱで納豆を作る「納豆合宿」を敢行する「実験」精神がまた面白い。ちなみに元祖水戸納豆が包まれていた藁束のことを藁苞(わらづと)と言う。

【目次】
納豆は外国のソウルフードだった!? チェンマイ/タイ
納豆とは何か
山のニューヨークの味噌納豆 チェントゥン/ミャンマー
火花を散らす納豆ナショナリズム タウンジー/ミャンマー
幻の竹納豆を追え! ミッチーナ/ミャンマー
アジア納豆は日本の納豆と同じなのか、ちがうのか
日本で『アジア納豆』はできるのか 長野県飯田市
女王陛下の納豆護衛隊 パッタリ/ネパール
日本納豆の起源を探る 秋田県南部
元・首狩り族の納豆汁 ナガ山地/ミャンマー
味噌民族vs.納豆民族 中国湖南省
謎の雪納豆 岩手県西和賀町
納豆の起源

【著者】
高野 秀行 (タカノ ヒデユキ)
 ノンフィクション作家。1966(昭和41)年、東京都八王子市生まれ。早稲田大学第一文学部仏文科卒。1989(平成元)年、同大探検部の活動を記した『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。2006年『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞を受賞。2013年『謎の独立国家ソマリランドそして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』で第35回講談社ノンフィクション賞、第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。

【抜書】
●ランナー王国(p16)
 13世紀から20世紀初頭まで、800年近くも続いた王国。タイ北部のチェンマイは、ランナー王国の都だった。
 ランナー文字という、ビルマ文字に似た文字を持つ。
 チェンマイは、バンコクよりもタイ民族オリジナルに近い文化が残っている。中国色が薄い。

●トナオ(p18)
 シャン語、タイ語で納豆のことを「トナオ」という。ト=豆(とう)、ナオ=腐った。
 シャン族……ミャンマー最大の少数民族。約500万人、人口の約1割。自称は「タイ(Tai)」。タイ王国のタイ族(Thai)と近い民族。タイ族は、シャン族のことを「タイ・ヤイ(大タイ)」、自らを「タイ・イーノ(小タイ)」と呼ぶ。もともと、シャン族がタイ族よりも「先に生まれて偉大だ」という意味で使われていたが、今は「山のタイ人」という蔑視のニュアンスを含む? タイ語とシャン語は、日本の標準語と沖縄語くらいの違いがある。「シャン」は、「シャム」が訛ったビルマ語、英語
 《トナオの種類》
 ①トナオ・ケップ……せんべい状。
 ②トナオ・サ……糸引き納豆。トナオ・メッ(粒納豆)とも呼ばれる。
 ③トナオ・ウ……ブロック状。

●山の調味料(p53)
 ビルマ族の主要な旨味調味料はンガピ。タイ族はナンプラー。どちらも海の魚介を使った発酵調味料。
 山の民シャン族は、納豆を旨味調味料として利用している。魚介類が届きにくい内陸の高地。
 納豆=山の調味料。

●『精進魚類物語』(p220)
 「納豆」の初出は藤原明衡(あきひら)『新猿楽記』、平安後期。しかし、塩辛納豆(煮豆に塩を加え、麹菌で発酵させる)、糸引き納豆(納豆菌の作用で発酵させる)か区別がつかない。
 明らかに糸引き納豆が文献に現れるのは、室町時代の『精進魚類物語』。〔「鮭の大介鰭長(ひれなが)」率いる魚と肉の連合軍が「納豆太郎種成(たねなり)」を大将とする山菜や豆腐などの精進料理同盟と宴会の上席をめぐって合戦を行うという突拍子もないバトルファンタジー小説〕。平家物語のパロディ。

●南方長城(p275)
 2000年4月に認定された、中国南部にある「長城」。湖南省から貴州省にかけて190kmほど続いている。
 明代に、苗(みゃお)族は漢族に圧迫されて山に逃げ込んだが、何度も叛乱を起こして町を襲撃した。それを防ぐために漢族が長城を築いた。

(2017/1/21)KG

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神都物語 伊勢神宮の近現代史
 [歴史・地理・民俗]

神都物語: 伊勢神宮の近現代史 (歴史文化ライブラリー)

ジョン・ブリーン/著
出版社名 : 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー 405)
出版年月 : 2015年7月
ISBNコード : 978-4-642-05805-6
税込価格 : 1,836円
頁数・縦 : 181p・19cm


 明治以降の伊勢神宮とその周辺地域の歴史を様々な観点からたどる。
 ちなみに、伊勢神宮、正式には、単に「神宮」というらしい。内宮は「皇大(こうたい)神宮」、外宮は「豊受大神宮」。

【目次】
伊勢神宮というパラドックス―プロローグ
「神都」の形成過程―明治期の伊勢神宮
 近代の神宮と天皇の「大廟」
 近代の宇治山田と地域社会
 神苑会と「神都」の形成
大正・昭和期の国民と伊勢神宮
 一九二九年の式年遷宮
 大正・昭和の伊勢神宮を語る
 伊勢神宮の広報
 伊勢の参拝空間
戦後日本と伊勢神宮
 終戦の危機と式年遷宮―一九五三年
 伊勢神宮の「脱法人化」と式年遷宮―一九七三年
 聖地と俗地の伊勢―一九九三年の式年遷宮
伊勢神宮の現在―エピローグ

【著者】
ブリーン,ジョン (Breen, John)
 1956年、ロンドンに生まれる。1979年、ケンブリッジ大学卒業。1993年、ケンブリッジ大学博士号取得。現在、国際日本文化研究センター、総合研究大学院大学教授。

【抜書】
●明治天皇(p15)
 1869年(明治2年)4月23日、伊勢神宮の外宮、内宮を参拝した。1868年には、京都を後にして東京に向かう途中、鈴鹿の関で伊勢神宮を遥拝した。
 伊勢神宮が7世紀に創立されてから、19世紀に至るまで、天皇は一度も参拝したことがなかった。
 天皇は、伊勢まで参拝する必要がなかった。①内侍所(ないしどころ)に天照大神を祀る神鏡があった、②未婚の皇女である斎王が戦国時代まで伊勢で天照大神に仕えていた、などの理由による。

●御師(p20)
 御師(おんし)……非重代の権禰宜身分。内宮に所属する荒木田271家。外宮に所属する渡会479家。全国9割の世帯にまで伊勢の大麻(お札)や暦を配っていた?(p31)
 檀家は、太々講(だいだいこう)をつくり、お金を貯め、毎年代表を宇治(内宮)と山田(外宮)に参拝させた。
 1871年、御師を廃止、免職。

●神宮教院(p34)
 1872年、宇治の浦田町に神宮教院設立。地域の神宮教会(かつての太々講をまとめる)を通して大麻頒布を実施。
 同年、政府は教部省を設置。全国の神職と僧侶を「教導職」(一種の宣教師)となし、「大教(だいきょう)」を全国に宣布させる。広まりつつあるキリスト教の社会的影響を防ごうとした。
 大教……教部省のもとで創出された新たな「教え」。

●非宗教化(p36)
 浦田長民『大道本義(だいどうほんぎ)』3巻、1876年。「神道の宝典」ともいわれ、天照大神を中心に据えた神道論。
 一方、出雲の大国主命を中枢とする神道論も当時は流行していた。
 1882年、政府は、伊勢神宮などの神職がこれまで行ってきた神道論の展開と宣布活動を一切禁止した。天皇の存在を権威づける天照大神まで巻き込んだ論争が起きないようにするため。神宮をはじめとする全国の神社が「非宗教」と位置づけられる発端となった。

(2017/1/17)KG

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