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藤原氏 権力中枢の一族
 [歴史・地理・民俗]

藤原氏―権力中枢の一族 (中公新書)  
倉本一宏/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2464)
出版年月:2017年12月
ISBNコード:978-4-12-102464-0
税込価格:972円
頁数・縦:297p・18cm
 
 
 乙巳の変あたりからおおよそ鎌倉時代まで、藤原氏の隆盛をたどる。
 
【目次】
はじめに 藤原氏とは何か
序章 鎌足の「功業」と藤原氏の成立
第1章 不比等の覇権と律令体制
第2章 奈良朝の政変劇
第3章 藤原北家と政権抗争
第4章 摂関政治の時代
第5章 摂関家の成立と院政
第6章 武家政権の成立と五摂家の分立
おわりに―日本史と藤原氏
 
【著者】
倉本 一宏 (クラモト カズヒロ)
 1958年(昭和33年)、三重県津市に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科国史学専門課程博士課程単位修得退学。国際日本文化研究センター教授。博士(文学、東京大学)。専門は日本古代政治史、古記録学。
 
【抜書】
●県犬養三千代(p53)
 県犬養三千代……美努(みぬ)王を捨て、不比等と結ばれ、安宿(あすかべ)媛(光明子)を生む。
 美努王……大宝律令体制完成の前夜、「皇親政治」の雄として筑紫大宰に下っていた。三千代との間に葛城(かずらき)王、後の橘諸兄が生まれていた。
 橘諸兄……高級官人を目指すため、王名を捨てて臣籍に降下していた。
 娼子……蘇我連子の娘。不比等に嫁いでいたが、三千代との結婚時、すでに亡くなっていた。
 光明子……皇太子首皇子(後の聖武天皇)の妃になる。
 
●国のかたち(p84)
〔 不比等は首皇子の即位を見ることなく、死去してしまった。しかし、その生涯において、律令国家を完成させ、律令天皇制(および太上天皇制)を確立し、それにもまして、藤原氏の輔政を永続化する基礎を固めた。いずれも持統との協力によるものであろうが、この古代国家の枠組みの確定が、その後の日本の歴史に与えた影響は、きわめて大きいものであった。
 それは単に藤原氏の栄華の継続にとどまるものではなく、日本の権力行使の有り様や、意思決定システムの様相、地位継承に関する構造など、政治や社会のあらゆる方面に及ぶものである。「この国のかたち」を作った原初は、まさに不比等と持統にあったといえよう。〕
 
●恵美押勝の乱(p116)
 恵美押勝の乱は、臣下が王権に対して組織的な軍事力を直接行使した、奈良時代における唯一の事例。
 
●頼通(p217)
 道長の一男、正暦3年(992年)生まれ。
 姉の彰子所生の後一条天皇の在位2年目にあたる寛仁元年(1017年)、道長から摂政の位を譲られる。26歳、史上最年少。しかし、実権は道長が握っていた。
 その後、頼通は51年間、摂政・関白の座にあり続けた。日本史において、蘇我馬子に次ぐ超長期政権。
 
●官司請負制(p241)
 10~11世紀の間に、全官庁機構の再編成が進められ、特定の氏族が特定官職に世襲的に補任され、さらに特定の氏族が特定官庁を世襲的に運営する傾向が生まれた。官職・官庁の世襲請負。
 職務にふさわし人材が生まれなかった場合、養子をとり、家の技能と家を継承していった。家業の成立。
 太政官弁官局の大少史……小槻(官務家)
 太政官外記(げき)局……中原、清原
 検非違使(けびいし)庁の明法(みょうぼう)官人……惟宗、中原、坂上
 算道……三善
 陰陽道……安倍
 歴道……賀茂
 
●家業(p242)
 藤原氏の北家諸家も、それぞれ様々な分野の家業を受け継いでいくことになる。
 清華家……和歌、筆道、装束、笛、琵琶、笙、和琴(わごん)
 大臣家……有職故実、和歌、香道
 雨林家……有職故実、歌道、筆道、神楽、筝、笙、琵琶、能楽、和琴、茶道
 名家……紀伝道、儒道、文筆、和歌、歌道、笛
 半家……有職故実、装束、和歌、俳諧
 博士家(南家)……大学頭、文章博士
 
(2018/2/8)KG
 
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アイヌ語地名と日本列島人が来た道
 [歴史・地理・民俗]

アイヌ語地名と日本列島人が来た道  
筒井功/著
出版社名:河出書房新社
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-309-22712-2
税込価格:2,160円
頁数・縦:275p・20cm
 
 
 アイヌ語地名の南限を、奥羽山脈の西側は秋田と山形の県境の山地(神室〈かむろ〉山地と丁岳〈ひのとだけ〉山地)に、東側は宮城県の北部地域に定め、それらの地名の由来を探る。
 著者によると、この地域より南にあるアイヌ語らしき地名のほとんどは、アイヌ語由来ではないという。その理由の一つとして、日本語地名の中にアイヌ語地名がぽつんと一つだけ存在するということはまずあり得ないからであるという。
 また、東北地方にアイヌ語地名が数多く残る理由は、古墳寒冷期の3~4世紀ごろ、人口が希薄化した東北北部へ、北海道からアイヌ民族が南下してきたためではなかろうかと推測している。
 
【目次】
第1章 アイヌ語地名の特徴と癖
第2章 ホロナイ紀行
第3章 オサナイとサンナイ
第4章 トチナイ・アイナイ・ウラシナイ・ヨナイ
第5章 そのほかの「ナイ」地名
第6章 東北地方の「ペッ」地名
第7章 アイヌ語地名の南限はどこか
第8章 東側では複雑に入り組んでいる
第9章 異種言語による地名解釈
第10章 マタギはアイヌ語地名帯の狩人であった
第11章 マタギとの歴史と生態
第12章 「蝦夷」とアイヌは同じではない
第13章 アイヌと沖縄人は全く別の集団である
第14章 列島北部の先史時代
第15章 アイヌ語地名の南限線は何を意味するか
 
【著者】
筒井 功 (ツツイ イサオ)
 1944年、高知市生まれ。民俗研究者。元・共同通信社記者。正史に登場しない非定住民の生態や民俗の調査・取材を続けている。第20回旅の文化賞受賞。
 
【抜書】
●ナイ、ペッ(p24)
 ナイ(nay)とペッ(pet)は、どちらも川・沢を示す。アイヌ語には、濁音と半濁音の区別がない。
 
●ポン、ポロ(p35)
 アイヌ語では、poro(ポロ)が「大きい」、pon(ポン)が「小さい」を表す。
 
●オサナイ(p50)
 オ・サ・ナイ=川尻が・乾く・川。途中で水が地下へもぐり、下流部で水無川のようになってしまう川。
 
●サンナイ(p60)
 サン・ナイ=出る・川。サンケ・ナイ=出す・川。
 つまり、大雨が降ると、急に水がどっと「出る川」のこと。
 
●大字(p94)
 「大字」は、原則として江戸末期(明治初期)の村の名前を踏襲したもの。
 明治19年(1886年)に内務省地理局が印刷した「地名索引」には、幕末に存在した19万余の町村が列記され、それがのちの大字にあたるとみてよい。柳田圀男『地名の研究』による。19万には、町を名乗っていた地域や、本村に付属する枝村(村郷)も含まれていたと考えられる。
 「字」……内務省は、明治8~9年ごろ、全国の自治体(多くは江戸期の村の広さ)に、600分の1(一分一間)の大地図を作らせた。ちょっと大きな町村では、お寺の本堂にも広げられないくらいの大きさになったので、小さく切った「切絵図」も作られた。今使われている「字」は、この絵図につけられた表題。元来の字は、もっと狭い範囲を指していた。柳田圀男による。
 字は、行政上の正式地名ではなく、公文書にも書き込む必要がない。本来、大字何番で十分。
 
●保(p208)
 「保」は、律令時代の国・郡・保という地方行政単位のひとつ。もともと5戸で構成されたいた。
 
(2018/2/1)KG
 
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古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける
 [歴史・地理・民俗]

古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける (PHP新書)
 
長野正孝/著
出版社名:PHP研究所(PHP新書 1115)
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-569-83713-0
税込価格:950円
頁数・縦:260p・18cm
 
 
 技術屋の視点で『日本書紀』の謎を読み解く。当時の技術力を勘案し、日本各地を実地調査して『日本書紀』の矛盾を突く。
 藤原氏の策謀によって、日本海側にあった王朝が抹殺され、すべてヤマト中心に書き換えられたのではないかという説を展開する。古事記や日本書紀でおなじみの神々も、多くは日本海側の各地に祀られているという。なかでも天照大神が生まれたのは対馬で、月読の神は壱岐だとか……。
 さらに、『宋書』『梁書』に登場する「倭の五王」の国は、出雲ではないかと推理する。
 荒唐無稽で眉唾な話にも聞こえるが、読んでみると説得力に富んでいる。
 
【目次】
序章 技術屋の見方と八つのお願いごと
第1章 対馬はなぜ泡の国とされたのか
第2章 海路でつながる壱岐、沖ノ島の神々
第3章 神功皇后の九州遠征―奪われた九州の遺産
第4章 「倭の五王」の国・出雲王国
第5章 神武東征―国威発揚と国土荘園化
第6章 虚構から現実の歴史に―継体天皇の淀川凱旋
第7章 隠され、無視され続けた古代海洋王国群
第8章 解けた巨大古墳群の謎―百舌鳥・古市古墳群考察
第9章 『日本書紀』の呪縛を解く
 
【著者】
長野 正孝 (ナガノ マサタカ)
 1945年生まれ。1968年名古屋大学工学部卒業。工学博士。元国土交通省港湾技術研究所部長、元武蔵工業大学客員教授。専門は水辺の観光、防災。公務員時代は広島港、鹿島港や「第二パナマ運河」などの計画・建造に従事。ライフワークは海洋史、土木史研究。
 
【抜書】
●太占(p49)
 ふとまに。古代の占い。もともと、鹿の肩甲骨に穴をあけて焼き、そのひび割れの形で吉兆を占っていた(鹿占:しかうら)。対馬では、亀の甲羅を使っていた(亀卜:きぼく)。
 鹿の肩甲骨を使うのが占(せん)、亀の甲羅を使うのが卜。(※『字通』には、そのような説明はなかった。「神に祈って卜し、神意を問うことを占という。」とのみ。)
 
●多久頭魂神社(p55)
 たくずだまじんじゃ。対馬の南端、豆酘(つつ)にある。
 祭神は、天照大神、天忍穂耳命、瓊瓊杵尊、火遠理命(山幸彦)、鵜葺草葺不合命。
 近くの高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)には、「渡しの神」の高皇産霊尊を祀っている。
 美津島町小船越(こふなこし)には、阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)もある。
 
●月読神社(p70)
 壱岐の島の中央に、月読神社がある。壱岐には、「月の神」への信仰がみられる。天の岩戸伝説もあったと考えられる。
 天手長男神社(あめのたながおじんじゃ、壱岐国一宮)の主祭神は、天忍穂耳命と天手力男命(あめのたじからおのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)。
 天手長比売神社(あめのてながひめじんじゃ)の主祭神は、栲幡千千姫命(たくはちぢひめのみこと)、稚日女命(わかひめのみこと)、木花開耶姫(このはなさくやびめ)、豊玉姫、玉依姫。
 
●ロシアによる対馬占領(p84)
 幕末の文久元年2月(1861年3月)、ロシアの戦艦ポサドニック号が対馬に来航し、浅茅湾(あそうわん)内の芋﨑(いもさき)に不凍港を得るべく、突如、海軍基地建設を始めた。幕府の小栗上野介はイギリス公使ラザフォード・オールコックに要請、イギリス艦隊の圧力によってロシア軍艦を退去させた。
 
●日本海の神々(p90)
 天照大神と素戔嗚尊との誓約で生まれた八柱の神が祀られている場所。
 宗像三女神……長女の田心姫(たごりひめ、沖ノ島沖津宮)、次女の湍津姫(たぎつひめ、宗像大島中津宮)、三女の市杵島姫(宗像市田島の辺津宮)。
 天忍穂耳命……壱岐・郷ノ浦の天手長男神社。
 天穂日命(あめのほひのみこと)……出雲大社。宮司の千家家の先祖。
 天津彦根命(あめつひこねのみこと)……滋賀県野洲市および東近江市、三重県桑名市。
 活津彦根命(いくつひこねのみこと)……彦根市、近江八幡市安土町。
 熊野櫲樟日命(くまのくすびのみこと)……松江市八雲町の熊野神社。
 
●住吉三神(p99)
 住吉三神は、ヤマトの守り神。おおもとは5世紀ごろから発展した住之江の漁師町。
 神功皇后は、日向で生まれた神々(豪族)と提携し、瀬戸内海から九州のほとんどの港を住吉三神の港にした。しかし、児島(岡山県)、伊予(愛媛県)、那の津(福岡県)には住吉神社は少ない。ヤマト王権の支配が及んでいなかった?
 住之江の漁師町の4~5km南に、百舌鳥古墳群が5世紀に突如出現する。この交易拠点であった場所に、住吉大社が建立された。
 住吉という地名は、百済滅亡前夜の難民が来た場所であったと考えられる。
 
●倭の五王(p142)
 5世紀から6世紀初頭、ヤマトの王が、大阪湾から瀬戸内海経由で九州、朝鮮半島、東北まで交易をして戻ってくるのは物理的に難しい。
 倭の五王の国は、日本海側の出雲、豊岡、敦賀、福井あたりにあった? 特に、出雲が有力。
 
●大三島(p161)
 瀬戸内海来島海峡、芸予諸島の大三島の神は、大山祇神。『伊予国風土記』逸文で、「大三島にいる神の御名は大山祇の神、またの名を和多志(わたし)大神という」とある。「渡しの神」である。
 やがてこの島は「御島(みしま)」と呼ばれるようになり、のちに「三島」となった。後世、村上水軍が誕生した場所。
 
●海部氏系図(p168)
 「海部氏系図(あまべしけいず)」は、丹後一宮の籠神社(このじんじゃ)所蔵、神の代から書かれた日本一古い系図。国宝。『日本書紀』の神々の系図とは異なる。
 伊弉諾尊
  |
 天照皇大神
  |
 正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊(まさかつあかつかちやはやひあめのおしほみみのみこと)
  |
 彦火明命(ひこほあかりのみこと)
  |
 彦火火出見命(ひこほほでみのみこと、山幸彦)
  |
 建位起命(たけくらいおきのみこと)
  |
 倭宿禰命(やまとすくねのみこと)
  |
  ?
  |
 建振熊宿禰(たけふるくまのすくね、武内宿禰)
 
(2018/1/17)KG
 
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世界のタブー
 [歴史・地理・民俗]

世界のタブー (集英社新書)
 
阿門禮/著
出版社名:集英社(集英社新書 0902)
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-08-721002-6
税込価格:821円
頁数・縦:254p・18cm
 
 
 世界中の様々なタブーを紹介する。タブーは、国、民族、宗教によって異なることは自明の理。なぜそんなタブーが生まれたのか? その理由も教えてくれる。
 そもそも、タブー(taboo)という言葉の由来は、トンガであるという。探検家ジェームス・クックが1777年に3度目に彼の地を訪れた時の記録("A Voyage to the Pacific Ocean"、1784年出版)に現地語のtabooという言葉を紹介したのが最初とか。
 
【目次】
第1章 日常生活でのタブー
 東西南北にみられる文化
 右と左の価値
  ほか
第2章 性についてのタブー
 モーセ律法の性のタブー
 『旧約聖書』の背徳の物語
  ほか
第3章 食べ物のタブー
 西アジアにおこった食物タブー
 イスラームの教え
  ほか
第4章 現代社会のタブー
 現代の新しいタブー
 現代米国のタブー
  ほか
 
【著者】
阿門 禮 (アモン レイ)
 文化史ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒業。中東、地中海地域の文化に関する比較研究、とくに一神教の信仰のもとでの、古代からの民間信仰、民間伝承の継承、呪術的な護符、しぐさによる意思の伝達など、考古文化人類学的な視点から取材を重ねている。
 
【抜書】
●黄色人種(p81)
 もともと、黄色は肌の色を指すものではない。
 「眠れる獅子」と言われていた中国は、19世紀後半以降、脅威の存在、目の離せない要注意国として位置づけられ、注意を要する場所につけられる黄色と結び付けられ、「黄禍(Yellow Peril)」と言われるようになった。
 中国、ロシアを破った日本も要注意国に加えられ、黄色い国として見られるようになった。
 ユダヤ人も「黄色」で色分けされた。13世紀初め、イギリスでは、ユダヤ人にそれと分かる服装で公共の場に出るようにとの戒めが教会からあった。ユダヤ人はモーセの十戒を記した布、または羊皮紙を上着につけることになり、その札が黄色と決められた。フランスでは円形のマークを付けることが命じられ、ルイ9世の代になって、それが黄色と決められた。やがて、15世紀、16世紀には、ドイツやオーストリア、やがてヨーロッパ各地に広がっていった。
 
●相撲(p133)
 相撲の女人禁制について。
 奈良時代に宮中で天覧相撲が始まり、平安時代には豊作を祈願する国占(くにうら)として、相撲節会(すまいせちえ)の儀式が定められた。これが、現在の相撲の直接の起源とされる。
 相撲節会は400年余の後、廃絶する。宮中行事としては1174年(承安4年)が最後。
 武士の時代には相撲は神事というより武術。江戸時代には興行となる。興行として格を高めるために、「装置的結界」を意図的に導入、神事としての側面を強調してきた。
 相撲に土俵が設けられたのは17世紀末。土俵が結界となり、神聖な場所となり、女人禁制となる。土俵は神迎えの儀式によって聖域となり、神送りの儀式によって結界が解かれる。
 1909年(明治42年)、両国に常設の相撲場が落成するにあたり、「国技館」としようという提案がなされた。発案は、東京大角力協会(とうきょうおおずもうきょうかい。の相撲協会の母体)。国技となるきっかけ。
 
(2018/1/7)KG
 
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天皇家のお葬式
 [歴史・地理・民俗]

天皇家のお葬式 (講談社現代新書)
 
大角修/著
出版社名:講談社(講談社現代新書 2449)
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-06-288450-1
税込価格:907円
頁数・縦:270p・18cm
 
 
 天皇と皇族のお墓事情。陵墓だけの記述では新書1冊もたないのか、歴代天皇のいろいろな逸話も盛り込まれている。
 
【目次】
はじめに―時代の変化を映す天皇の葬儀
天皇の葬儀に関する用語
第1章 明治天皇陵と明治神宮の創建―京都と東京の「都」争い
第2章 古代の天皇の葬儀―古墳時代から平安時代まで
第3章 中世の天皇の葬儀―鎌倉・室町時代
第4章 近世の天皇と葬儀―江戸時代
第5章 尊皇の潮流―王政復古への道
第6章 山陵の復活と孝明天皇陵―古代神話の再生
第7章 近代国家の天皇―象徴への道
第8章 明治天皇の大葬―モダン化する伝統
第9章 大正天皇の生涯と大葬―東宮御所のニューファミリー
第10章 昭和天皇の時代―大戦を超えて
第11章 昭和天皇の大葬―新憲法のもとで
 
【著者】
大角 修 (オオカド オサム)
 1949年生まれ。地人館代表。東北大学文学部宗教学科卒業。仏教書・歴史書等の編集・執筆意を行っている。
 
【抜書】
●火葬(p28)
 大宝3年(703年)12月、持統天皇(正確には太上天皇)が荼毘に付された。天皇の火葬の初例。
 崩御は前年の12月。1年間の殯を経て火葬され、遺骨は壺に入れて、天武天皇(686年崩御)が葬られた檜隈大内陵(ひのくまおおうちりょう)の石室に納められた。
 古代の殯は、内裏の庭に殯宮(もがりのみや)を作って遺体を安置し、白骨化するのを待って葬る葬法。その間、生前と同様に食膳が供えられた。
 長期の殯は、天皇の完全な死を確認し、次の即位を確実にするためだったと考えられている。
 その後、奈良時代初期の天皇は火葬だったが、聖武天皇(756年崩御)から土葬に戻った。
 
●上皇(p39)
 陽成天皇は、9歳で即位、17歳で譲位。65年間、上皇の地位にあった。
 82歳の天暦3年(949年)9月20日、病を得て出家して法皇となり、29日に崩御。神楽岡(京都市左京区)に土葬された。
 その後、平安時代には、天皇が在位のうちに崩ずれば土葬、譲位して上皇になってから崩ずれば火葬が通例となる。
 康保(こうほう)4年(967年)、42歳で在位のまま崩御した村上天皇を最後に、土葬は絶え、もっぱら火葬となる。生前の譲位が慣例となったから。死穢が大きな忌みになり、天皇が在位のまま崩ずることは天下の凶事であったため。
 後一条天皇は、長元9年(1036年)に29歳で急逝したが、生きていることにして譲位。「如在之儀(にょざいのぎ)」。
 
●四条天皇(p51)
 2歳で即位、仁治(にんじ)3年(1242年)1月9日、12歳で崩御。女官らが滑って転んだら楽しいと御所の廊下に滑石を塗ったところ、自分が転んで不慮の頓死。
 当然子がなく、皇嗣問題が生じ、遺体はしばらく放置された。九条道家らの公卿は順徳上皇の皇子を推したが、執権北条氏が拒否。土御門上皇の皇子を擁立、後嵯峨天皇に。
 1月25日、ようやく泉涌寺(せんにゅうじ)で土葬された。天皇の遺詔。父の後堀川天皇が葬られた観音寺に近い。当時、天皇の権威は著しく低下し、泉涌寺のほかに葬儀を引き受ける寺がなかった。
 泉涌寺……江戸時代には天皇・皇室の菩提寺として、「御寺(みてら)」と呼ばれるようになる。四条天皇の葬儀が第1号。
 
●深草北稜(p54)
 南北朝期、南朝では土葬、北朝では火葬だった。
 持明院統初代の後深草天皇(1304年崩御)は伏見の深草で荼毘にふされ、その地に建立された法華堂に納骨された。
 深草法華堂は、持明院統歴代の霊堂として南北朝の合一(1392年)以後も引き継がれた。
 北朝第四代の後光厳天皇以後は泉涌寺で荼毘にふし、深草法華堂に納骨するようになった。
 江戸時代初期の後陽成天皇まで、12人の陵があるので、「十二帝陵」という。現在は深草北稜と呼ばれている。
 
●和風諡号(p76)
 漢風諡号は、奈良時代中期、神代にさかのぼって付けられた。
 和風諡号は、平安時代初期の仁明(にんみょう)天皇(850年崩御)の「日本(倭)根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあめしるしとよさとのみこと)」を最後に、付けられなくなった。
 
●追号、天皇号(p76)
 平城、嵯峨は地名。生前の天皇の遺徳を表す名ではないので、「諡号」と区別して「追号」と呼ばれる。
 平安中期の村上天皇を最後に、「天皇」という言葉も消える。次の冷泉天皇(950-1011)は、暮らした御所の名から「冷泉院」と呼ばれた。以後、追号の多くは居所に因んで「〇〇院」とされ、たまたま同じ場所の場合は「後一条」「後嵯峨」のように「加後号」を付けた。
 江戸時代後期、光格天皇(1771-1840)に天皇号が復活。
 
●孝明天皇(p103)
 孝明天皇の陵は、泉涌寺山内に作られることになった。月輪陵・後月輪陵とは少し離して作られ、後月輪東山陵という。
 この時の葬儀が、天皇の仏式の葬儀の最後となった。
 また、墳丘型の山陵が復活。
 
●奠都(p114)
 明治の東京への遷都は、京都がまだ都だという意味を込めて、「奠都」と称した。
 東京奠都の前に、京都御所で即位の礼が行われた。
 
●神前結婚(p188)
 大正天皇は、明治33年5月10日、皇太子20歳の時に結婚式を挙げた。
 前月に新しく神道式の婚儀の形を定めた「皇室婚嫁令」が公布され、宮中賢所の神前で婚儀が営まれた。
 これをきっかけに、民間でも神前結婚式が行われるようになり、流行した。それまでは、一般の結婚式は両家の親族が集まる座敷で仲人が媒酌して三三九度の杯を交わす、人前結婚式だった。
 
●偕行社(p208)
 日本各地にあった陸軍将校の集会所・迎賓館。
 
(2017/12/27)KG
 
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ミルクと日本人 近代社会の「元気の源」
 [歴史・地理・民俗]

ミルクと日本人 - 近代社会の「元気の源」 (中公新書)
 
武田尚子/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2438)
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-12-102438-1
税込価格:950円
頁数・縦:271p・18cm
 
 
 明治期から第二次世界大戦の終戦直後まで、ミルクと日本人の関係を丁寧にたどる。
 明治初期、牛乳は主に日本に滞在する西欧人のために生産された。それが、栄養価の高い食品として、次第に日本人の間にも普及していく。
 保存施設や輸送設備の貧弱だった当時は、消費地の近く、すなわち東京近郊に多くの牧場が存在した。内藤新宿に牧場を構えた耕牧舎は、芥川龍之介の実父新原敏三(にいはらとしぞう)が経営していた。伊藤左千夫も、牛乳配達人から身を起こし、都内に自営の牧場を経営するまでになった。
 そういったミルクにまつわる人生模様がいくつか描かれている。
 
【目次】
序章 ミルクが届く朝
第1章 近代牧牛の揺籃期
第2章 渋沢栄一の牧場ビジネス
第3章 お相撲さんとミルク―栄養と衛生
第4章 ミルクのある暮らし
第5章 キャラメルの時代―食品加工業の進展
第6章 関東大震災と牛乳配給
第7章 学校とミルク―昭和期の脱脂粉乳
終章 ミルク供給の経済モデルと福祉モデル―経営問題と栄養問題
 
【著者】
武田 尚子 (タケダ ナオコ)
 お茶の水女子大学文教育学部中国文学科卒業。2000年、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(社会学)。武蔵大学教授等を経て、早稲田大学人間科学学術院教授。専攻・都市社会学、地域社会学。著書『瀬戸内海離島社会の変容―「産業の時間」と「むらの時間」のコンフリクト』(御茶の水書房、2010年、第4回地域社会学会賞)、『マニラへ渡った瀬戸内漁民―移民送出母村の変容』(御茶の水書房、2002年、日本社会学会奨励賞)ほか。
 
(2017/12/17)KG
 
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アルカイダから古文書を守った図書館員
 [歴史・地理・民俗]

アルカイダから古文書を守った図書館員  
ジョシュア・ハマー/著 梶山あゆみ/訳
出版社名:紀伊國屋書店
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-314-01148-8
税込価格:2,268円
頁数・縦 :349p・20cm
 
 
 マンマ・ハイダラの息子、アブデル・カデル・ハイダラが、「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」や、トゥアレグ族の独立派からトンブクトゥの古文書を守るために奮闘する物語。
 彼は、アフマド・ババ研究所のために、マリ国中そして周辺国から古文書を集める仕事を請け負い、さらには自分の父祖が集めた古文書を保存するためのマンマ・ハイダラ記念図書館を建てる。そして、トンブクトゥには45の図書館と37万8,000冊の古文書が保管されることになる。
 2012年から2013年にかけて過激派に占領されたトンブクトゥから、このうちの数十万冊を首都バマコまで秘密裏に輸送し、過激派の破壊から守ったのである。
 
【目次】
重責を負わされた少年
失われた黄金の歴史
古文書を探す苦難の旅
私設図書館第一号の誕生
トンブクトゥの新たな春
忍び寄るイスラム原理主義
警戒を強めるアメリカ
吹き荒れるテロの嵐
危険な同盟
トンブクトゥに迫る戦火
征服と抑圧
古文書救出作戦の開始
破壊と残虐
トンブクトゥ脱出
南下する恐怖
フランスの軍事介入
ニジェール川の輸送作戦
勝利と解放
戦いの終焉
 
【著者】
ハマー,ジョシュア (Hammer, Joshua)
 ニューヨーク生まれ。プリンストン大学で英文学を専攻。1988年に『ニューズウィーク』に入社し、ビジネスやメディア関係の記事を担当。1992年から2006年までは、五つの大陸で同誌の支局長兼特派員をつとめる。2007年からはドイツのベルリンを拠点に世界各地を取材し、『スミソニアン』誌、『アウトサイド』誌、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』誌などに定期的に奇稿。2016年度の全米雑誌賞など、ジャーナリズム関係の賞を多数受賞している。
 
梶山 あゆみ (カジヤマ アユミ)
 東京都立大学人文学部英文学科卒業。翻訳家。
 
【抜書】
●トンブクトゥ(p26)
 12世紀初頭、トゥアレグ族(サハラ砂漠で放牧を営む遊牧民)の一家が、サハラ砂漠から250km南のニジェール川流域に着いた。毎年夏に、砂漠の酷暑を避けてこの草原へ遊牧するのを習わしとしていた。
 ある夏、数km北寄りのニジェール川の支流近くに、もっと過ごしやすそうな場所を見つけた。浅い井戸が一つあって、美味しいきれいな水を飲むこともできる。
 9月になって、一家は、近くに住むトゥアレグの女性に重い荷物を預けて砂漠に戻った。一家はその女性を、ブクトゥ(へその大きな人)と呼んでいた。
 翌年の夏、また南に向かう一家は行き先を尋ねられてこう答えた。「われわれはブクトゥの井戸(ティン)――ティン・ブクトゥに行く。トンブクトゥは、フランス語読み。
 そこはラクダにとっても川舟にとっても便がよいことから、次第に野営地としての評判が広まっていった。
 その後100年で、世界の十字路として発展を遂げ、二つの文化がぶつかる要衝となった。
 農民に漁師。トゥアレグ族の貴族階級とその奴隷「ベラ族」。ガーナ帝国の暴君のもとを逃れたアラブ人やベルベル人(北アフリカに住むコーカソイド系の民族)の商人。
 
●コロフォン(p30)
 コロフォン……ギリシャ語で「最後の仕上げ」という意味。トンブクトゥの写本には、すべてコロフォン(現在の奥付にあたる)が付されている。
 筆写の開始・終了時期、写本が造られた場所、書家や校正者の名前が記録された。アラビア語に母音記号を振る役割をもった、第三の職人の名も記載。時には、写本制作を依頼した顧客の名も。
 
●アフマド・ババ(p37)
 アフマド・ババ・アル・マスフィ、1556年、アラワン生まれ。岩塩鉱とオアシスの町。黒人で、黒いアイシャドウをつけ、黒づくめの服を着ていたので、「黒い人」の異名をとる。
 トンブクトゥのサンコーレ大学の図書館向けに60冊の本を書いている。コーランやハディースの注釈書、北アフリカのマーリク学派を取り上げた人名事典、天文学書、『煙草使用の正当性について』『アフマド・ババが奴隷制に関するモロッコ人の問いに答える』、など。
 
●黄金時代の終焉(p40)
 1591年、火縄銃と大砲を装備したモロッコの軍隊がトンブクトゥを包囲。ソンガイ帝国の王アスキア・イスハーク2世は殺害される。その兄弟が後継者として即位、モロッコの王に忠誠を誓った。
 モロッコ軍はサンコーレ・モスクを襲撃、アフマド・ババの書庫を略奪。アフマド・ババ自身や何十人もの学者がモロッコに連行され、学問の都の黄金時代は幕を閉じた。
 
●KITAKATA(p90)
 アフマド・ババ研究所で、作業室の様子を見学。傷みやすい古文書のページを「KITAKATA」と呼ばれる日本製の紙で補強していた。薄くて丈夫。裂け目の補修やページの裏打ちに最適。古文書はふつう、紙の片面にしか文字が記されていない。
 
●ギニアビサウ(p145)
 ギニアビサウは、大西洋に面した「麻薬国家」。イスラム教過激派のアブデルハミド・アブ・ゼイドもモフタール・ベルモフタールも、トゥアレグ族やアラブ人の運び屋を使って麻薬を陸路でアンリからギニアビザウへ運び、麻薬売買を行っていた。
 
(2017/12/9)KG
 
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人類一万年の文明論 環境考古学からの警鐘
 [歴史・地理・民俗]

人類一万年の文明論―環境考古学からの警鐘
 
安田喜憲/著
出版社名:東洋経済新報社
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-492-22379-6
税込価格:2,592円
頁数・縦:337, 15p/20cm
 
 
 「電気新聞」ウェーブ欄に2004年から2017年にわたって連載されたエッセーをもとに構成。畑作牧畜民(現代の西欧人)の生み出した物質エネルギー文明の限界と、稲作漁撈民(すなわち日本人)の文明の優位を説く。
 おおむね首肯できる内容ではあるが、畑作牧畜民および一神教に対する嫌悪感丸出しの主張はいかがなものか。「他者」に対する嫌悪が内在するのであれば、結局、稲作漁撈文明が将来の社会を導くことになっても、西欧文明同様、他の民族・宗教を排除する思想が萌芽してしまうのではないだろうか。
 
【目次】
第1章 環境考古学
第2章 環太平洋文明
第3章 災害と文明
第4章 富士山と地球環境史ミュージアム
第5章 生命文明の時代
第6章 未来に向けて
 
【著者】
安田 喜憲 (ヤスダ ヨシノリ)
 1946年三重県生まれ。東北大学大学院理学研究科修了。理学博士。広島大学助手、国際日本文化センター教授、東北大学大学院教授などをへて、現在、ふじのくに地球環境史ミュージアム館長、立命館大学環太平洋文明研究センター長。スウェーデン王立科学アカデミー会員、紫綬褒章受章。
 
【抜書】
●地球温暖化(p15)
 1万5000年前、年平均気温が一気に4~6度も上昇する地球温暖化の時代が訪れた。気候の湿潤化も伴う。
 シベリア北部ではスゲ科や地衣類の湿性ツンドラが拡大し、カバノキ属やヤナギ属の森林が覆う。南部では針葉樹の暗い森が拡大。ケナガマンモスの好物のイネ科やヨモギ類の生息するマンモスステップが姿を消した。
 
●最終氷期最寒冷期(p18)
 3万3000年前、最終氷期最寒冷期(過去10万年で最も寒冷で乾燥)の開始期、ホモ・サピエンスは寒冷乾燥気候に適応して生き残った。ネアンデルタール人は絶滅。
 ホモ・サピエンスの誕生した20万~15万年前は、リス氷期末期の地球環境激動の時代だった。
 
●年縞(p35)
 年縞(ねんこう)……湖の底に積み重なったバーコード状の縞模様。福井県の水月湖、鳥取県の東郷池、秋田県の目潟などの湖底ボーリングによって発見。
 春から夏に珪藻が繁殖して白い層を、秋から冬にかけて粘土鉱物が静かに湖底に堆積して黒い層を形成。地球の遺伝子(ジェオ・ゲノム)と名付ける。
 
●五つの掟(p36)
 稲作漁撈民が守ってきた五つの掟。これにより、持続的にこの地球で生き続ける文明システムを発展させてきた。
 ① 自然を信じ、人間を信じ、森や山そして川や海に祈る心を持つこと。
 ② 命の源の水の循環系を守ること。
 ③ 自然の豊かさを、生命の連鎖を守るためには、時には自らの命を捨てても構わないという気概を持つこと。
 ④ 自然の資源を使い尽くさないで循環的に利用すること。
 ⑤ 自然を守るためには自らの欲望をコントロールすること。
 
●長江文明崩壊(p68)
 4200~4000年前は、著しい気候悪化期。寒冷化した。
 気候悪化により、北方から金属製の武器を持った畑作牧畜民が南下し、長江文明を滅ぼした。現在の漢民族のルーツ。
 石家河文化末期には、北方の黄河文明の要素が顕著に出現するようになる。
 稲作漁撈民は、雲南省や貴州省の山岳地帯、チベット高原、東南アジアへと逃れ、海岸部に暮らした人々は日本列島や台湾に逃れた。
 ミトコンドリアDNAの分析によると、漢民族にだけはM8aハプロタイプという特異な遺伝子が存在するが、周辺の少数民族や日本人にはM8aハプロタイプを持つ人の比率は少ない(篠田謙一『日本人になった祖先たち』NHKブックス、2007年)。
 Y染色体の分析では、漢民族はO3eという特異な系統、雲南省や貴州省、チベット高原、東南アジアの人たちはO2a系統、日本列島はO2b系統(崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』昭和堂、2008年)。
 
●文明の歯車(p120)
〔 危機が忍びよっているにもかかわらず、人々は文明がカタストロフに崩壊する直前まで、巨大なモアイをつくり続け、しかもモアイは、文明の末期になればなるほど巨大化していった。
 人々は、森の消滅によってひたひたと押し寄せる危機を、まったく無視するかのように、より大きなモアイ、より巨大なモアイをつくり続けたのである。
 私たち現代人は、このイースター島のモアイの文明の崩壊から、文明の暴走の恐怖を学ばなければならないのである。
 文明の歯車は、いったん回り出したら、後戻りすることはおろか、立ち止まることさえむずかしいのである。文明の暴走は巨大化を生む、という事実を直視しなければならないのである。〕
 
●島国根性(p122)
 森を守る「島国根性」。
 ① 山を崇拝する。島に恵みの雨と水をもたらしてくれる高い山を聖山としてあがめる。
 ② 自然の再生と循環は、魚を食べることによって守られる。
 ③ 女性の力を大切にした。女性が頑張る社会は、自然の豊かさが守られ、持続型文明社会を構築できた。
 
●日本の漂流(p168)
 第一の危機……明治維新。一神教を背景とした近代欧米文明を受け入れやすくするために、神仏習合と修験道を排除しようとした。
 第二の危機……第二次世界大戦敗戦。マッカーサーは、日本を共産主義に対決するキリスト教の理想郷にすべく、神道と仏教から魂を抜いた。神官は自然崇拝の哲学を語ることなく、仏教は葬式仏教に堕落していった。一方で、一神教に基礎を置くマルクス史観に対しては寛容だった。
 第三の危機……現在の危機。グローバル化と市場原理主義によって引き起こされた。
 市場原理主義は美しい完結した経済理論であるが、歴史と伝統文化を無視した個人の欲望を中心にした経済理論である。将来世代への責任を無視した、現在の欲望のみに立脚した個の欲望。
 
●大陸根性(p178)
 大陸型の畑作牧畜民の文明は、環境や自然が悪化すると、その場を捨てて簡単に移動する。〔大陸根性とは、移動し破壊する心でもある。〕
 
●大仏温暖期(p193)
 最澄と空海が生きた時代は、万葉寒冷期から大仏温暖期へと移行する、地球温暖化の時代であった。干ばつや洪水などの気象災害と地震が多発する時代。
 最澄……自己否定の後、「草木(そうもく)国土悉皆成仏」の思想に至る。
 空海……『三教指帰(さんごうしいき)』の仮名乞児(かめいこつじ)は、自己否定に陥った自身の青春時代の姿。
 
●新嘗祭(p294)
 11月23日の勤労感謝の日は、もともと新嘗祭。稲作漁撈民にとって、最も重要な豊穣の儀礼の祝日。
 豊かな収穫に感謝し、新米を神々にささげ、翌年の豊作を祈る。
 
●森林破壊(p324)
 12世紀以降の大開墾によって、アルプス以北のヨーロッパ平原の大森林(ヨーロッパブナやナラ類)は、17世紀までのあいだに完璧に破壊された。
 イギリスやスイスでは90%、ドイツでは70%の森が失われた。
 
(2017/11/17)KG
 
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世界単位日本 列島の文明生態史
 [歴史・地理・民俗]

世界単位 日本: 列島の文明生態史 (学術選書)  
高谷好一/著
出版社名:京都大学学術出版会(学術選書 082)
出版年月:2017年8月
ISBNコード:978-4-8140-0079-1
税込価格:2,376円
頁数・縦:471p・19cm
 
 
 世界単位。著者による命名で、世界がいくつかの「単位」で創られているという主張をもとに、こう呼んでいるらしい。その「世界単位」としての日本列島を、大陸や南の海との関りを通して、歴史を俯瞰しつつ多角的に論じる。
 ところで、本書の読者を高校生以上と想定してるが、それならば難読語や特殊な地名には「よみがな」を振ってほしいものだ。唯一、よみがなが付されていたのは、「野洲川デルタの中の典型的な普通の村」開発(カイホツ)であった(p337)。著者の住んでいるところだとか。
 
【目次】
第1部 アジア概観―生態区と文明区
 第1章 大陸の森
 第2章 海の世界
 第3章 草原、砂漠、中華世界
 
第2部 日本の形成―内世界と外文明
 第4章 列島の森と野と海―縄文文化の生態史
 第5章 米と銅・鉄―弥生文化
 第6章 国連合から王国へ―天孫思想の到来
 第7章 日本国の確立―律令制の導入と在地化
 第8章 中世武家の時代―分裂と進出
 第9章 陸海あげての激動期―近世への胎動
 第10章 近世日本国の成熟―江戸時代
 第11章 脱亜から戦争へ―明治以降
 
終章 日本、「周辺」そして世界の共存
 
【著者】
高谷 好一 (タカヤ ヨシカズ)
 京都大学名誉教授、滋賀県立大学名誉教授。1934(昭和9)年、滋賀県守山市に生まれる。1958年、京都大学理学部卒業。京都大学東南アジア研究センター助手、助教授を経て、1975年から京都大学東南アジア研究センター教授。1995年から2004年まで滋賀県立大学人間文化学部教授。2004年から聖泉大学教授。2016年3月11日、調査旅行中のインド・チャンディーガルで逝去。
 
【抜書】
●照葉樹林文化(p4)
 中尾佐助が命名。「農業起源論」(『今西錦司博士還暦記念論文集Ⅰ 自然――生態学的研究』、森下正明/吉良竜夫 編、中央公論社、1967年)より。
 照葉樹林が広がるネパール、中国南部(長江流域以南)、韓国南部、日本列島の西半分に根付いた文化。
 納豆、味噌、豆腐、麺、ちまき、餅、茶、など、共通の食材を有する。他に、絹や漆なども。
 
●良渚遺跡(p31)
 良渚(りょうしょ)遺跡……BC3300年からBC2200年頃の遺跡。長江文明。稲作が頂点にまで高まった。
 杭州湾の北岸。河姆渡(7000年前の水田遺跡)より低湿性は少ない。
 BC2000年ごろ、大洪水で滅亡。そこから北に逃れた人たちが、夏・殷文明を作ったという説もある。
 
●洞庭湖(p34)
 長江中流域、洞庭湖周辺は、最も早く稲作が確立したところ。彭頭山遺跡には、8000~9000年前の稲作遺跡がある。
 長江文明の五点セット……城壁、水田、祭祀の場、神殿、王宮。安田喜徳の命名。長江文明の原型。稲作と稲作儀礼は6000年ほど前にでき、5300年前に王によって政治と祭祀の場として形が整えられた。
 長江文明では、王は聖別した籾の配分者。稲作儀礼をして、きちんと聖別した稲籾を人々に分け与えた。軍備を司る草原型や、交易によって繁栄するオアシス型の王ではなく、農業がうまくいくように祈る司祭のような人だった。
 
●メソポタミアの収穫率(p41)
 メソポタミアでは、水は灌漑によってもたらされ、貴重なものだったので、きわめて丁寧にムギが作られた。BC2200年頃のウル第三王朝の場合、1粒の種子から70~80粒の収穫があった。産業革命頃のイギリスのムギは4~5粒。
 
●サゴヤシ(p81)
 東南アジア島嶼部の湿地林に生える。直径50~60cm、高さ10m。
 成木になると、幹に澱粉を蓄積する。普通のもので、1本から40kg、大きいものだと60kgくらい取れる。1Haあたり毎年50~60本の木が伐れるので、非常に高収量。
 サゴ・ルンダン……サゴ洗いで取り出した澱粉を、もう一度きれいに洗い、篩でふるうと、球状になる。布の上に広げて左右に振ると、小珠は磨かれ、硬くなる。これを浅い鍋に入れて3時間ほどかけてゆっくり炒る。すると、真珠にそっくりのサゴ・ルンダンが出来上がる。
 サゴ澱粉は、マレー人の主食であった。
 
●船のサイズ(p127)
 15世紀末、アジアにやってきたポルトガルの船は400トン程度。
 15世紀初頭、鄭和が大遠征に使った船は8000トン級だった。
 14世紀頃、南シナ海や東南アジアの海には1000トン・クラスのジャンクが活躍していた。しかし、小回りの利くポルトガルの軍艦が、図体がでかくて防御力を持たないジャンクを襲って略奪したので、アジアの船はその後、どんどん小さくなっていった。
 もともとアジアの海は平和で、大型船が無防備に交易活動を行っていた。
 
●五畜(p135)
 遊牧民は、5種類の家畜を飼育していた。すべて草場が違うので、数家族で組んで分業し、遊牧を行う。モンゴルでは、この組(小集団)を「ホタアイル」と呼ぶ。
 牛……食料として利用。春から秋までは草が多いので、乳をたくさん出すので、牛乳を利用。良い草地が必要。
 馬……騎乗用。移動と、放牧した家畜群の見張りに必要。良い草地が必要。
 羊、山羊……食用にするとともに、毛を利用して布やフェルトを作る。
 ラクダ……荷物運搬のトラック。テントや家具を運ばせる。粗悪な草地でも生きていける。
 
●チンギス・ハン(p141)
 最近の歴史学者たちは、従来のチンギス・ハン(チンギス・カン)の軍隊が猛烈に強く、残忍だったという考え方を改め始めている。
 武力による直接対決よりも、政治的な駆け引きで相手を味方に引き入れることが多かった。人間や分捕り品の分配を餌に、戦わずして味方を増やす。効率的に行うために、商人を多く利用。草原地帯には、商人ネットワークも形成されていた。
 シャーマンも味方をする。「天神はテムジンが皇帝になることを望んでいる」。草原社会では、シャーマンの宣託は大きな力であった。
 チンギス・ハンは、社会の仕組みを変える天才でもあった。部族や氏族の社会単位を解体し、1000戸からなる集団に組み替えた(千戸制の創設)。人々は、部族への帰属心よりも国への帰属心を持つようになった。
 
●ウイグル(p158)
 ウイグル人は、8世紀の中頃、突厥が衰えると、草原の覇者となった。約1世紀、典型的な騎馬民族国家を作った。
 840年頃、キルギス人の急襲を受けて崩壊し、天山山脈の北麓のビシュパリクに新しい国を建てた。天山山脈の南麓のオアシス地帯(タリム盆地)にも広がり出す。そして、オアシス農耕と交易を始めた。草原の民から、オアシスの民へと転身。
 
●中華世界(p163)
 中華世界は、森や草原や砂漠といった生態を基盤にした世界ではない。中華思想というイデオロギーでまとめられた世界。
 〔これはそのはじめは生態の境界に作られたいわば貿易会社のようなものであったと私は思っている。おそらく最初はペルシャかどこかのオアシス出身の商人が砂漠帯の東端に貿易会社をひらいた。有望な会社だったのだろう、すぐに草原出身の騎馬民も加わって共同経営を始めた。この会社経営にはのちには農民や森の民も加わった可能性もある。こうして貿易会社中華商会を育てていった。多民族の加わった会社だから、社是を決め、社内語も決めた。これが儒教と漢語である。この社是は、極めて巧妙にできていたものだから、会社は二〇〇〇年以上に渡って生き続けた。
 中華世界は社是で纏められた範囲だから、生態区のように安定した広がりを持つわけではない。会社が強力になったときには広がり、弱くなると縮む。しかも、本店と支店のような分節もしばしば起こる。現在の中華人民共和国は、本来の中華世界よりもかなり広い範囲を強権で抱え込んでいると見てよい。〕
 〔中華世界は、だから儒教と律令制で国をまとめるのだと決めた為政者の支配した範囲で、すぐれて政治的な範囲なのである。〕(p177)
 
●卵生神話(p186)
 古朝鮮の神話では、天から降りてきた神や霊気が人や動物と交わって最初の王を作る。ツングース系に典型的な始祖神話。熊を親に持つ檀君神話など。
 4世紀の三国時代になると、天孫降臨系の話に加えて、卵という要素がかかわってくる。
 卵生神話は、中国南部から東南アジアにかけて広く分布している。混沌の宇宙に生まれた最初の人間である盤古も、卵から生まれたと書かれている(『三五歴記』。3世紀の呉)。
 韓半島はその大部分がモンゴル・ツングース系の文化でおおわれているが、南端部には江南系、海洋系の文化が入っており、卵生神話が天孫降臨系の話に加わった。
 
●母子交合(p222)
 八丈島の最南端、丹娜婆の墓。八丈島の始祖伝説。
 昔、大津波が襲い、人はみな死んだ。妊婦1人だけが船の艫つかまって助かった。
 その後、女は産み落とした男の子と母子交合して子孫が増えた。
 母子交合から子孫が増えたという話は、オセアニアにはところどころにある。沖永良部にも。
 限界的な環境で生きる人たちの文化?
 
●縄文語(p226)
 崎山理の説。『日本語形成』三省堂、1990年。
 縄文語は、ツングース語とオーストロネシア語を話す人たちが出会ったときに生まれた混成語。5000年ほど前?
 ツングース語の文法の上にきわめて多くのオーストロネシア語の語彙が加わってできた。
 ツングース語の文法は主語、目的語、動詞の順に並び、現在の日本語の語順と同じ。
 ツングース系……もとは亜寒帯針葉樹林に住み、狩猟をした人たち。一部は温帯落葉広葉樹林にもおり、狩猟が中心だが、農耕も少し行った。
 オーストロネシア系……南の海民。東南アジアを中心に、東はイースター島、西はマダガスカルにまで分布。もともとは雲南省のあたりにいたらしい。今から6000年ほど前に移動を開始し、広がった。中心部はスンダ陸棚やウォーレシアや南シナ海。
 
●稲作文化の基本要素(p230)
 稲作文化の基本要素は稲、竹、鵜飼、高床式建物。
 本来、竹は日本列島にはなかった。稲と対をなして列島に導入された。隼人が竹の筏船に竹の根と鵜を乗せて鹿児島あたりに上陸?
 大陸の照葉樹林帯には多い。照葉樹林の斜面脚部に広大な竹藪が広がることが多い。
 
●銅鐸文化圏(p238)
 銅鐸文化圏……淡路島を中心に、播磨灘、大阪湾、紀伊水道の周りと伊勢湾並びに遠州灘の周辺に広がっている。稲作がもっとも充実して広がったところ。稲作適地。江南との深いかかわり。
 銅剣文化圏……出雲、吉備。金属加工が卓越した地域。有名な馬の産地でもある。早くから半島系の人たちが入ってきて、独自の文化圏を作っていた。大陸の草原地帯との深い関り。
 銅矛文化圏……玄海灘、周防灘、豊後水道、土佐海岸。海上交易に中心をおく地域。銅矛は、航海祭祀と境界祭祀に用いられる。東シナ海や南シナ海との深いかかわり。
 
●天孫思想(p271)
 古墳時代になると、大王が現れ、巨大古墳が造られた。草原の騎馬民族の持つ天孫思想が日本に到来したことが影響?
 
●ダミー国家(p351)
 琉球は、福建の海民たちが仕立てた「国」だった?
 明の太祖洪武帝が1371年に海禁令を発布。倭寇や密貿易を抑え、外交交渉による華夷秩序の回復を目指した。チャンパ、ジャワ、高麗、日本、琉球に使者を派遣し、朝貢を促した。
 琉球に対して、特別の優遇策を取った。洪武・永楽年間に、海船30隻を与え、朝貢業務を行う中国人居留地の久米村を作った。久米村は、1392年に明朝から閩人三十六姓を下賜されたのが始まり。
 海禁令により、一般海民の交易活動は一切禁止。閩の海商たちは、朝貢貿易を行うため、「琉球国」をでっち上げた。
 
●隠岐島コミューン伝説(p398)
 松本健一『隠岐島コミューン伝説』河出書房新社、1994年。
 幕末、日本の近海に外国の船が出没するようになった。海防のため、隠岐では、480人の農兵が作られた。
 隠岐の庄屋や神官たちは、武芸を教える「文武館」の設置を藩に嘆願した。しかし、歎願は却下され、「武芸差留め」の布告が出された。郡代が島民を信用せず、これ以上農民たちに武器を持たせると危険だと判断したため。
 怒った農民たちは、「世は天朝御料になったのだから、旧藩の役人たちは早々にこの地を退去してほしい、島は自分たちで守る」と、松江藩の郡代を島から追い出した。慶応4年(明治元年)。
 農民たちは、自治政府、コミューンを作った。農民たち、海民たちの危機意識。
 しかし、新政府からの指示で松江藩が鉄砲隊を島に送り込み、コミューンは81日で終わった。
 
●三種の人(p402)
 日本には、三系統の人が共存している。
 オーストロネシア系の海民、ツングース系の内陸民、水稲耕作民。
 
(2017/11/12)KG
 
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いま知っておきたい天皇と皇室 気になる動向と素朴な疑問に答える本
 [歴史・地理・民俗]

いま知っておきたい天皇と皇室: 気になる動向と素朴な疑問に答える本
 
山下晋司/著
出版社名:河出書房新社
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-309-02566-7
税込価格:1,512円
頁数・縦:199p・19cm
 
 
 知られざる天皇と皇室の真の姿を、かつて宮内庁長官官房総務課報道室に勤務していたジャーナリストが語る。
 
【目次】
1 「天皇の退位」をめぐって浮上した重大な課題とは
2 天皇と皇室を支える「しくみ」の基礎知識
3 「天皇のお仕事」はなぜ忙しくなったのか
4 「皇室の国際親善」の本当の役割とは
5 新聞・テレビではわからない「宮内庁と皇居」の内側
6 皇室の知られざる「プライベート」を拝見
7 天皇と日本の未来のために「残された問題」とは
 
【著者】
山下 晋司 (ヤマシタ シンジ)  
 1956年、大阪府生まれ。関西大学卒。皇室ジャーナリスト。23年間にわたり宮内庁に勤務、おもに報道室で、宮内記者会をはじめとする報道機関対応を担当した。2001年に退職した後は『皇室手帖』編集長などを務め、現在はBSジャパン『皇室の窓』の監修ほか、皇室解説の第一人者としてテレビ、新聞ほか各種メディアで活躍中。
 
【抜書】
●泉湧寺(p67)
 泉湧寺(せんにゅうじ)は、皇室の菩提寺。JR奈良線・京阪本線の東福寺駅が最寄り駅。
 歴代天皇の位牌がある。
 「御寺(みてら)泉湧寺」という言い方をする。
 全国には、陵(天皇、皇后、太皇太后、皇太后の墓)が188、墓(その他の皇族の墓)が554、点在している。北は山形県羽黒山、南は鹿児島。神代三陵のうち、ウガヤフキアエズノミコトの吾平山上陵(あひらのやまのえのみささぎ)が大隅半島の鹿屋市にある。
 
●プリンタ(p89)
 今上天皇は、自分で式典のお言葉の原稿を書く。パソコンを使用。プリンタも持っていて、推敲のための印刷には裏紙を使う。
 
●稲作と養蚕(p100)
 田植えと稲刈りを始めたのは、昭和天皇。昭和2年(1927年)、お住いの赤坂離宮に田んぼを作る。「農民と同じ苦労と収穫の喜びを味わいたい」。農業の奨励。
 今上天皇はさらに籾蒔きを追加。
 収穫された米は、神饌として、新嘗祭や神嘗祭のときに宮中や伊勢神宮にお供えされる。
 皇居内の紅葉山御養蚕所では蚕を飼っている。昭憲皇太后が始めた。皇后の活動。産業奨励。
 
●宮内庁御用達(p159)
 明治時代に、国産の品質の高い製品に「お墨付き」を与えるためもあって「宮内庁御用達」の制度が作られたが、昭和24年(1949年)をもって廃止になった。
 最後に出した御用達の有効期限は5年(つまり昭和29年)だったが、現在も「宮内省御用達」の看板を掲げる業者がある。宮内庁は、特に問題のない限り、黙認している。
 
●民主主義(p191)
〔 国民感情というものは、制度云々よりも、天皇や皇族方のご活動を見ることで生まれるものです。
 陛下のご活動に接した国民が陛下を尊敬し、熱烈に歓迎する、その歓迎ぶりが陛下のモチベーションになる。このいい関係で成り立ってこそ、民主主義下の象徴天皇制度は維持されていくのだと思います。〕
 
(2017/11/4)KG
 
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