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信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 [歴史・地理・民俗]

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 
ロックリー・トーマス/著 不二淑子/訳
出版社名:太田出版
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-7783-1556-6
税込価格:1,944円
頁数・縦:263, 16p・19cm
 
 
 イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に帯同し、信長に贈られた「黒人侍」弥助の数奇な人生を、限られた数少ない資料を基に推理する。
  
【目次】
第1章 日本上陸と信長との謁見
第2章 弥助の経歴を紐解く
第3章 現代に伝わる弥助伝説
第4章 弥助が生きた時代
第5章 弥助はどこから来たのか
第6章 信長の死後の弥助
第7章 弥助の生涯を推測する
付録 第一章「日本上陸と信長との謁見」に関する補足史料
 
【著者】
ロックリー,トーマス (Lockley, Thomas)
 日本大学法学部専任講師。研究分野は言語学習。担当教科は歴史で、特に国際的視野に立った日本史を扱う。イギリス出身、日本在住。
 
不二 淑子 (フジ ヨシコ)
 翻訳家。早稲田大学第一文学部卒。
 
【抜書】
●非ヨーロッパ世界(p99)
〔 しかし、たてつづけに出版が続いたあとは、黒人侍の逸話は三百年間忘れ去られてしまったようである。二十世紀前半に日本が強国となり、その国際的影響力が非白人国の中で突出したとき、日本国内で非ヨーロッパ世界と再びつながろうとする動きが起こり、白人帝国主義の犠牲者である黒人に対しても親しみを持つようになった。第一次世界大戦前に〈脱亜入欧〉というスローガンを掲げていた時期の反動とも言える流れだった。第二次世界大戦直前の日本は、当時の西欧社会がけっして日本人を同等とは見なさないことを認識し、考えを改めたのだった。この新しい波が起こった結果、弥助の逸話のように半分忘れ去られていた話の多くにスポットが当てられ、非ヨーロッパ世界との国際協調を促すために利用された。
 ここで忘れてはならないのは、日本が第二次世界大戦に参戦した大義名分は――最終的にどういう結果になったにせよ、また戦後に歴史がどう捉えたにせよ――、ヨーロッパ列強の植民地支配からの脱却だったという点だ。二十世紀初頭には世界中の何百万もの人々がこのメッセージを信じ、日本の方策を支持するにせよしないにせよ、そこから何かを感じ取っていた。その中には、ガンジー、中国最後の皇帝溥儀、孫文、スカルノ、アウンサン[ビルマの独立運動家。アウン・サン・スーチー氏の父親]といった著名人や、それほどではないアジアやアフリカの独立運動の指導者たちもいた。今日ではほとんど忘れられているが、日本軍には日本国内の日本人だけでなく、台湾と朝鮮の植民地部隊や中国と満州の志願兵、遠く離れたインドの反植民地主義者の同盟軍も含まれていた。また、二十世紀初頭には、欧米列強による統治と支配を終わらせてアジア人のためのアジアを築くという汎アジアの夢の名のもとに、中国やフィリピンで起こった独立運動に参加して死ぬまで戦った日本人志願兵もいた。〕
 
●カスティーリャ王国(p156)
 15世紀のイベリア半島は、カスティーリャ王国がポルトガルを除く全地域を支配していた。
 ポルトガルは、かろうじて独利した王国を維持していたが、中世の封建制度から中央集権的な君主制へ移行しつつある貧しい発展途上国に過ぎなかった。キリスト教国とは友好関係を保ち、北アフリカのイスラム教国とは聖戦を行っていた。そのため、ポルトガル船は、母国から遠く離れた港に向かうようになった。交易によって経済を発展させるため、海洋船を建造、アフリカ沿岸を目指す。喜望峰を通過し、インド洋まで到達、東洋の香辛料や富への道を開いた。ただし、この事実は国家機密。他のヨーロッパ諸国がモロッコ以南のアフリカ西海岸に何があるのかを知るのは、15世紀終盤、スペイン国王の支援を受けた探検隊が遠征に乗り出すようになってから。」
 
●アレッサンドロ・デ・メディチ(p173)
 ルネッサンス期のイタリアには、自由民のアフリカ人もいた。奴隷が市民権を得て自由民となることもあった。アフリカ人自由民によるコミュニティもあった。
 バチカンには、主要なアフリカ諸国の大使館があり、アフリカ人大使が駐在した。
 アレッサンドロ・デ・メディチは、「ムーア人」というあだ名で呼ばれ、アフリカ人奴隷の女性の子供と言われていた(真偽不明)。1530~1537年、フィレンツェ公を務めた。
 
●アビシニア(p184)
 16世紀ごろのエチオピアは、複数の部族が競合していたが、最古の部族の名を取って一般にアビシニアと呼ばれていた。
 南インドでは、5世紀以降、アビシニアの硬貨が頻繁に発見されており、当時からアビシニア人が商人や船乗りとしてインドを訪れていた。
 キリスト教国のアビシニアは、周囲のイスラム国やアニミズム信仰国に囲まれ、紛争が絶えなかった。サハラ以南のアフリカでもっとも国家としての体裁を整えた国だったが、安定を欠いていた。
 
●ディンカ族(p187)
 南スーダンには、世界で一番平均身長が高い部族、ディンカ族が住んでいる。牛飼いであり、勇猛な戦士。エチオピア人、エリトリア人、ソマリ人よりも黒い肌をしている。
 
(2017/6/25)KG
 
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ジャポニスムと近代の日本
 [歴史・地理・民俗]

ジャポニスムと近代の日本
 
東田雅博/著
出版社名:山川出版社
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-634-59088-5
税込価格:1,620円
頁数・縦:127p・21cm
 
 
 幕末から明治維新にかけて、ヨーロッパで起こったジャポニスムに関して考察する。
 主な視点は万国博覧会と文学作品に現れたジャポニスム。そして、シノワズリーとの関連に関しても言及。
 
【目次】
Ⅰ部 ジャポニスム
 1章 ジャポニスムとは何か
 2章 ジャポニスムはなぜ起こったのか
 3章 ジャポニスムは何をもたらしたのか
 4章 新しい研究
Ⅱ部 ジャポニスムで近代日本の歴史を読む―「歴史総合」試案
 5章 ジャポニスムは近代史のなかにどう位置づけられてきたのか
 6章 ジャポニスムを近代史のなかにどう位置づけるのか
 
【著者】
東田 雅博 (トウダ マサヒロ)
 1948年、大阪市生まれ。1981年、広島大学大学院文学研究科博士課程修了、西洋史学専攻。博士(文学)。富山大学人文学部教授、金沢大学文学部教授などを経て、金沢大学名誉教授。
 
【抜書】
●ジャポニスム、ジャポネズリー(p6)
 ジャポネズリー……「異国の珍しいものへの関心を強調するニュアンスが強い」。(高階秀彌「ジャポニスムとは何か」『ジャポニスム入門』ジャポニスム学会編、思文閣出版、2000年)
 ジャポニスム……「むろんそこにエキゾティスムの要素が大きな部分を占めているとしても、それのみにとどまらず、そこに見られる造形原理、新しい素材や技法、その背後にある美学または美意識、さらには生活様式や世界観を含む広い範囲にわたる日本への関心、および日本からの影響が問題とされる」。(同上)
〔 かなり乱暴にまとめてみれば、ジャポネズリーは異国趣味であり、それを超えて初めてジャポニスムである、ということになるだろう。〕
 
●1862年、ロンドン万博(p21)
 「西洋における日本の芸術の発見」は、1862年のロンドン万博に始まる。ポール・グリーンハルが指摘。
 1851年、ロンドンのハイドパークで開催された最初の万博「大博覧会」においても日本の製品は展示されていた。ただし、中国の展示品に日本の製品が紛れ込んでいただけ。
 1862年の万博では、日本の展示は来訪者に衝撃を与えた。しかし、この万博を見物した竹内遣欧使節団(福沢諭吉を含む)には不評だった。展示品の中に提灯、傘、木枕、蓑笠、草履のようなものまで並んでいたことが、使節団一行には残念に、あるいは屈辱的に思われたようである。
 日本が正式に参加したわけではない。日本の展示は、在日イギリス公使サー・ラザフォード・オールコック(『大君の都』の著者。1863年発行)が中心になって行った。オールコックは、日本の文明を高く評価していた。
 
●1867年、パリ万博(p25)
 1867年のパリ万博に、日本は初めて正式に参加。徳川昭武(慶喜の弟)が派遣された。幕府末期のこの時期、そんな余裕はなかったが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュの強い要請に応える。
 薩摩藩と佐賀藩も独自に万博に参加。
 展示品は、武器、楽器、家具、和紙、書籍、衣服、陶磁器、漆器、銅器、ガラス器、根付け、『北斎漫画』や歌川国貞などの浮世絵、そして10点ほどの油絵など。3人の柳橋芸者が茶でもてなす日本風茶店もあった。
 『ロンドン画報』(1867年10月19日号)の「パリ万国博覧会 日本」という記事にて、和紙を激賞。
 「日本人の作る優良な紙は――九十種類もあるが――この紙の時代においてですら、ヨーロッパ人にはまだ知られていないようなさまざま目的に利用されている。彼らは、われわれがするように部屋に壁紙を張るだけでなく、紙の衣装や、紙のハンカチーフや、傘も持っている。……さまざまな色の日本の紙のとてもすばらしいコレクションが博覧会に出品されていて、われわれにはまだ、それほど完全に知られていないこの国から来るすべてのものと同様に、大きな興味をそそるのである。」
 
●エミール・ゾラ(p52)
 エミール・ゾラ『愛の一ページ』(1878年)。美しく貞淑な若き未亡人と、隣に住む富裕な医師との不倫の物語。この医師の庭園が、妻の日本趣味に彩られている。「日本風のあずまや」が設けられている。
 「壁と天井には金色のブロケード織りの布が張りめぐらされ、飛び立っていく鶴の群れや、極彩色の蝶と花、それに黄色い河に青い小舟が漂っている風景などが描かれていた。目の細かい茣蓙の敷かれた床には、黒檀でできた椅子と花台がいくつも置かれている。漆塗りの家具も数点あって、小ぶりの青銅彫刻、小さな東洋の陶磁器、それに、けばけばしい原色で塗りたくられた奇妙な玩具など、夥しい数の置物が所狭しと並べられていた。奥にはザクセン焼きの大きな東洋風の人形が置かれていたが、膝を折り曲げて座っている、このむき出しの布袋腹の持ち主は、ちょっと押されただけでも、見るからに楽しげな様子で、狂ったように頭を揺り動かすのだった。」(石井啓子訳、藤原書店、2003年、p.73)
 ゾラは、マネなど、印象派の画家たちと深く関わっていた。彼らから、ジャポニスムの影響を受けた?
 
●ギ・ド・モーパッサン(p56)
 ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885年)。元下士官のジョルジュ・デュロワが、男前を武器に中上流階級の女性をたらし込んで出世する物語。
 「彼は、……いよいよ女がくるとなると、できるだけうまく部屋のみすぼらしさを隠さなければならないが、それはどうしたらよかろうかと考えた。そして、日本製のこまごました品物を壁にピンでとめようと思いつき、五フラン奮発して、ちりめん紙や小さな扇や屏風を買い、それで壁紙の目立ちすぎるしみを隠した。窓のガラスには、川に浮かぶ船や夕焼け空を飛ぶ鳥やバルコニーによりかかる極彩色の貴婦人や雪の野原をいく黒い小さな人形の行列などをあらわした、透明な写し絵をはった。
 狭くて、寝るところと腰をおろすところしかない彼の住居は、やがて絵を描いた提灯の内側のようになった。」(田辺貞之助訳、新潮文庫、1976年、p.117)
 
●日本人の軽業興行(p67)
 松井源水一座による軽業見世物が、1868年2月2日より5月4日まで、ロンドンで行われた。ジョン・ラスキン『時と潮』所収の「第六の手紙 近代娯楽の堕落(日本の曲芸師)」(1867年2月28日付け)に、以下のように記述されている。
 「日本の曲芸師の一団が興行するためにロンドンに来ていることは聞いているだろう。かなり前から日本の美術への関心が高い。このことはわが国の画家たちにきわめて有害であった。わたしは日本人がどんな人々であるのか、彼らが何を成し遂げたのかを知りたかった。」
 「演技全体を見た印象は、劣等な人種と呼べる人間が存在しているのだというものであった。とはいえ、あらゆる点においてではない。人間の優しさ、家庭的な愛情、器用さなどが認められないわけではない。しかしながら彼らは国民としては悪魔的精神に捕らえられ、それによって何年もの忍耐を経て下等動物の性質とある程度類似するように自らを造り替えるよう追い込まれたのだ。」
 軽業興業は、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカ、オーストラリアなどでも行われた。
 
●日本人村(p68)
 1885年1月10日から、ロンドンのナイツブリッジで日本人村の興行が始まる。
 「日本の意匠や様式で建てられた店舗、住居、茶店、および寺院だけではなく、日本の土着の工芸家や職人および彼らの家族をまとめてこの国に運び込み、ロンドンの中心部にできた小さな植民地に移植するという、今までにない思い付きが周到かつ上品に実行に移された。」(『タイムズ』紙)
 舞台が設えられ、軽業、足芸、綱渡り、相撲、チョンナキ踊りなども演じられた。
 入場料は1シリング。開幕4か月で25万人が来場した。
 しかし、日本人村は火災で焼失、再建されたが客足は今一つであった。
 日本人村は、ギルバートとサリバンのオペラ『ミカド』にも強い影響を与えた。初日のプログラムに、「上演にあたって、ナイツブリッジの日本人村の責任者および住民の貴重なご助力を受けたことに深く感謝する」との謝辞が見える。
 マイク・リー監督の映画『トプシー・ターヴィー』(1999年)には、日本人村の女性が『ミカド』の出演者たちに演技指導しているところが描かれている。
 
●プルースト(p71)
 プルーストは、盆栽にほれ込むほど日本びいきだった。
 『失われた時を求めて』には、さまざまな日本のモノが次々と登場する。
 ・水中花遊び(鈴木道彦訳、集英社、2001年、1巻、pp.92-93)
 ・「日本趣味の七宝模様」(同1巻、p.299)
 ・「日本の墨絵のような影」(同1巻、p.391)
 ・「日本の屏風に描かれているような」(同5巻、p.178)
 ・「銀色の地に日本画の手法で描かれたノルマンディのリンゴの木」(同12巻、p.13)
 
(2017/6/24)KG
 
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いまの世界をつくった世界史の大事件30
 [歴史・地理・民俗]

いまの世界をつくった世界史の大事件30
 
関眞興/著
出版社名:宝島社
出版年月:2016年9月
ISBNコード:978-4-8002-5809-0
税込価格:1,080円
頁数・縦:319p・19cm
 
 
 重大事件を中心に近現代の世界史を通観する。
 
【目次】
第1章 18~19世紀
 イギリス政界まで巻き込んだ異常な投機熱―南海泡沫会社事件《1720年、イギリス》
 独立革命につながるアメリカの権利意識―ボストン=ティー=パーティー事件《1773年、アメリカ13州》
 フランス革命のきっかけになった市民たちの暴動―バスティーユ襲撃事件《1789年、フランス》
 産業革命によって生まれた賃金労働者の不満を表明した―ラッダイト運動(事件)《1811年、イギリス》
 戦争の発端となったビスマルクの電報改竄―エムス電報事件《1870年、プロシア》
 反ユダヤ感情を増幅させた仏近現代史上最大の冤罪事件―ドレフュス事件《1894年、フランス》
 朝鮮進出を図る日本が打った残虐な一手―閔妃暗殺事件《1895年、李氏朝鮮》
 「扶清滅洋」を掲げ、外国勢力の排除を目指した―義和団事件《1900年、中国》
  
第2章 20世紀前半
 民衆の素朴な崇敬を粉砕したツァーリの銃弾―血の日曜日事件《1905年、ロシア帝国》
 どの国も望んでいなかった第一次世界大戦の引き金―サライェヴォ事件《1914年、オーストリア=ハンガリー帝国》
 オスマン帝国の崩壊に続く近代化への途中で起こった―タラート=パシャ暗殺事件《1921年、オスマン帝国》
 民主主義の象徴が焼け落ち、ナチス独裁のきっかけに―国会議事堂放火事件《1933年、ドイツ》
 永久革命論とスターリンの一国社会主義との対決―トロツキーの暗殺《1940年、ソ連》
 インド現代史における「非暴力主義」のゆくえ―ガンディー暗殺事件《1948年、インド》
 「約束の地」を求めたユダヤによるアラブへの攻撃―デイル=ヤシーン村虐殺事件《1948年、イスラエル》
 戦後のアメリカで突如吹き荒れた「赤狩り」の嵐―ローゼンバーグ事件《1950年、アメリカ》
 
第3章 20世紀後半
 南アフリカの「アパルトヘイト」に対する不満が爆発―シャープビル虐殺事件《1960年、南アフリカ》
 アメリカがカストロ政権の転覆を狙ってキューバに侵攻―ピッグス湾事件《1961年、キューバ》
 インドネシアで突如起こったクーデターと共産党弾圧―9・30クーデター《1965年、インドネシア》
 ド=ゴールの時代に起きた新しい世代の叛乱―フランス五月革命《1968年、フランス》
 中国とソ連が国境となる川中の島を巡って武力衝突―ダマンスキー島衝突事件《1969年、ソ連》
 イラン革命後に元国王の引き渡しを求めた民衆―アメリカ大使館占拠事件《1979年、イラン》
 南米エル=サルバドルで人権尊重を求めたカトリック福者―ロメロ神父狙撃事件《1980年、エル=サルバドル》
 「筋金入りの抵抗者」の教皇が率いるヴァチカン市国―ヨハネ=パウロ2世暗殺未遂事件《1981年、ヴァチカン市国》
 自由化を求めた学生デモに対する無差別発砲―天安門事件《1989年、中国》
 保守派によるクーデター未遂はやがてソ連崩壊へと導く―ゴルバチョフ軟禁事件《1991年、ソ連》
 第二次世界大戦後、ヨーロッパで最大のジェノサイド―スレブレニツァ虐殺事件《1995年、ボスニア=ヘルツェゴビナ》
 
第4章 21世紀
 アメリカと中東世界が起こした「文明の衝突」の悲劇―9・11同時多発テロ《2001年、アメリカ》
 「世界最悪」の悲劇・コンゴ紛争とアフリカ大戦―ローラン・カビラ暗殺事件《2001年、コンゴ民主共和国》
 ウクライナを脅かす21世紀ロシアのナショナリズム―クリミア半島併合事件《2014年、ウクライナ》
 
【著者】
関 眞興 (セキ シンコウ)
 1944年、三重県生まれ。東京大学文学部卒業後、駿台予備校世界史講師を経て、著述家。
 
【抜書】
●バスティーユ監獄(p34)
〔 この後、フランスは革命の長い混乱に入っていく。発端となったバスティーユ監獄は、フランス絶対主義の象徴のように言われるが、この時、政治犯の収容者は一人もおらず、文書偽造犯4人、精神病患者が2人、素行不良の貴族1人の計7人であった。しばしば話題になるマルキ=ド=サドは10日ほど前に他の施設(修道院)に移されていた。
 ということで、じつはバスティーユ監獄に、直接的には「絶対主義の象徴」としての意味はなかった。しかしこの事件が「フランス革命史」で強調されるのは、それまで特権階級の間でおこなわれていた「革命」に市民が直接介入したことと、この事件が瞬く間に全国に伝えられたことにより、全国的な革命状況を生み出す契機になったことにある。〕
 つまり、市民たちは武器と弾薬を奪いに行ったのである。
 
●アルメニア(p116)
 カスピ海と黒海の間をさすコーカサス地方にある3国の一つ。他は、ジョージアとアゼルバイジャン。
 アルメニア人は、インド=ヨーロッパ系の言語を話す民族。キリスト教。初めてキリスト教を国教化した民族としても知られる(301年)。祖国アルメニアは300万人あまりの人口だが、ヨーロッパに50万人、アメリカに80万人余りがいるという。
 商才にたけ、「コーカサスのユダヤ人」と呼ばれることもある。
 
●アラブ人(p153)
 アラブ……アラビア語を話すイスラム教徒。アラビア語は、もともとアラビア半島の住民の言葉だった。イスラム教徒は「アラビア語でコーランを読まなければならない」というイスラム教の基本原理がある。
 
●アフリカの年(p181)
 17の独立国が誕生した1960年を、国連は「アフリカの年」と評した。
 
●5月35日(p260)
 1989年、天安門事件。6月4日未明、李鵬の指示によって人民解放軍が鎮圧活動を開始した。天安門広場に集まっていた学生・市民たちに対し、無差別に発砲、多くの死傷者が出た。政府発表は319人。数万の死傷者が出たとの意見もある。
 インターネットでは、「6月4日」という言葉を含むものはすべて遮断されるため、「5月35日」などの隠語を生んでいる。
 
●イスラム教(p289)
 〔イスラム教は純粋な宗教であり、政治的な宗教でもある。〕
 教義は、「六信五行」と単純。
 イスラム教には聖職者がいない。ただし、それに対応する法学者がいて、宗教上・生活上の問題は『コーラン』に戻って解説してくれる。世俗的な法体系を作り上げるのではなく、法体系の原点が『コーラン』。〔日常生活そのものが宗教生活であり、宗教がそのまま日常である。〕
 
(2017/6/18)KG
 
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世界と日本がわかる最強の世界史
 [歴史・地理・民俗]

世界と日本がわかる 最強の世界史 (扶桑社新書)
 
八幡和郎/著
出版社名:育鵬社(扶桑社新書 230)
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-594-07640-5
税込価格:929円
頁数・縦:311p・18cm
 
 
 日本との関連を捉えながら古代から現代までの世界史を通観する。
 
【目次】
第1章 人類・神話・民族
第2章 ローマ・ペルシャ・秦漢帝国
第3章 仏教・キリスト教・イスラム教
第4章 民族移動・宗教政治・商人の活躍
第5章 成吉思汗・ルネサンス・オスマン帝国
第6章 大航海時代・アメリカ・宗教改革
第7章 ウェストファリア体制・絶対王制・大清帝国
第8章 アメリカ独立・フランス革命・大英帝国
第9章 世界大戦・社会主義・ファシズム
第10章 国家独立・市場経済・グローバリズム
 
【著者】
八幡 和郎 (ヤワタ カズオ)
 1951年滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学大学院教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。
 
【抜書】
●帝国(p32)
 世界でただ一人だけ、エンペラーを名乗っているのは日本の天皇。
 ヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、ロシアの皇帝が、第一次世界大戦とその時期の革命でいなくなった。
 ソロモン王とシバの女王の子孫とされるエチオピアのハイエセラシエ(ハイレ・セラシエ)帝も、1974年に革命によって廃位させられた。
 しかし、帝国主義とか大英帝国といったように使われるときの「エンパイア(帝国)」というのは、多数の国とか民族を束ねた政治形態のことをいう。君主が皇帝を名乗っているかどうかは関係ない。
 帝国のはしりは、紀元前7世紀にメソポタミアからエジプトまでを統一した、アッシリア。
 完成形にしたのは、紀元前6世紀にダレイオス1世(在位前522-前486)のもとで全盛期を迎えたアケメネス朝ペルシャ。インド北西部からマケドニアやルーマニア、エジプトまで領土が及んだ。
 ペルシャの制度は、それを滅ぼしたアレクサンドロス大王の帝国に引き継がれ、さらにローマやインドのアショーカ王の帝国もその伝統を受け継いでいる。
 
●朝鮮半島(p58)
〔 しばしば、日本が半島から文明を学んだという言い方がされますが、根拠はありません。稲作が本格化する条件も温暖な日本のほうが整っています。あとで書くように6世紀あたりに百済を通じて中国の文化を輸入する時代がありましたが、ほかの時代にもそれと同じようなことがあったわけではありません。〕
 
●「何も学ばず、何も忘れず」(p178)
 クロムウェルが59歳で死んだとき、死刑にしたチャールズ1世の息子で大陸に亡命していたチャールズ2世を迎えて王政復古を選んだ。
 ただ、彼らは大陸から「何も学ばず、忘れず」に帰ってきたので、人々に嫌われた。結果、チャールズ2世の弟であるジェームズ2世は、名誉革命(1688年)で追放され、娘のメアリとその夫でプロテスタントだったオランダ総督オレンジ公ウィリアム(オラニエ公ウィレム)が共同君主として迎えられた。
 フランスが戦争に負けて、ナポレオンが地中海のエルバ島に流されたとき、亡命者たちは「何も学ばず、何も忘れず」に帰ってきた。ルイ16世の弟がルイ18世になった。(p204)
 
●セオドア・ルーズベルト(p244)
 セオドア・ルーズベルト(在任1901-09)は、軍事的な圧力を背景に、「静かに歩いていても、棍棒を持ってさえいれば遠くに行ける」ということをモットーにしていた。
 パナマ運河を建設するためにコロンビア国内の分離派を巧妙に仕掛けたことを理想主義者は非難したが、「運河を建設する前に半世紀も議論するよりも、建設してから私の処置について半世紀議論したほうがましだ」と反論した。
 
●中国(p308)
 〔中国は政治・経済・社会・文化などいずれをとっても巨大な開発途上国にすぎません。もし、21世紀が後進文明国のヘゲモニーのもとに置かれるなら、人類にとってこのうえない不幸はないのです。〕
 
(2017/6/3)KG
 
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疑問に迫る日本の歴史 原始・古代から近現代までを考えながら学ぶ
 [歴史・地理・民俗]

疑問に迫る日本の歴史
 
松本一夫/著
出版社名:ベレ出版
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-86064-499-4
税込価格:1,728円
頁数・縦:325p・19cm
 
 
なぜそれは起こったのか、疑問に答えながら日本史の側面・裏面を解説する。原始・古代から近現代まで、全40題。
教科書では出てこない歴史のとらえ方を学べる一冊。
 
【目次】
第1部 原始・古代
縄文人の知恵
邪馬台国論争はなぜ決着しないのか
ほか
第2中世
鎌倉幕府の成立はいつか
武士どうしの争いでもあった承久の乱
ほか
第3部 近世
織田信長は本当に天下統一をめざしたのか
豊臣秀吉の情報戦略
ほか
第4部 近現代
世界史から見たペリー来航
近代国家は江戸末期に準備されていた―綿工業の視点から
ほか
 
【著者】
松本 一夫 (マツモト カズオ)
1959年生まれ。1982年慶應義塾大学文学部を卒業後、栃木県の高校教員となり、20年間日本史、世界史等を担当する。専門は日本中世史。2001年博士(史学)。國學院大學栃木短期大学、宇都宮大学等で非常勤講師を務めた。その後、栃木県立文書館等を経て現在は栃木県立上三川高等学校長。南北朝期の軍事関係史を研究する一方で、日本史教育の実践的研究にも取り組む。
 
【抜書】
●麦、米(p16)
岡山県姫笹原遺跡から出土した縄文中期の土器から、イネ科植物の葉に含まれるプラントオパールが検出された。
九州や山陽地方の後期・晩期の縄文遺跡から、米や麦の粒そのものが見つかっている。
米や麦は、弥生時代以前の早い時期に日本に伝わっており、一時期、原始的な農耕も行われていた。
しかし、日本の豊かな自然は、農耕に頼らなくても狩猟採集生活に困らなかったので、農耕が普及しなかった。
稲作は、梅雨を経て育成期に高温となる日本の気候に最も適し、収量も豊かだったので、この生業方式が大陸から入ってきたときに初めて農業社会に移行した。
縄文人がスムーズに農業技術を習得した理由……定住が進み、すでに相当な計画性をもって食料調達ができていた。アク抜きなど手間のかかる作業を通じ、勤勉さを身に着けていた。エゴマやヒョウタンなど、一定の植物栽培の知識がすでにあった。工夫された道具類が残されていることから、手先が器用だった。
 
●歌あわせ(p77)
和歌が文芸の中心となったのは9世紀末。貴族の間で、左右に分かれて歌の優劣を競う「歌あわせ」が盛んとなった。905年『古今和歌集』以後、朝廷が次々と勅撰和歌集を編纂していった。
(しかし、すでに783年ごろ(?)『万葉集』が成立していた)
 
●犬小屋(p206)
徳川綱吉の時代、元禄8年(1695年)10月、幕府は四谷、大久保、中野に大規模な犬小屋を作り、江戸町方の野犬を収容した。
中野の犬小屋は16万坪、東京ドームの約11倍。すぐに手狭となり、翌年10万坪の施設を増築。25坪の犬小屋が290棟、7.5坪の日除け場が295棟、子犬養育所が495か所設けられた。最大10万匹が収容されていた。
 
●四木三草(p214)
戦国時代以来、農民たちは米以外にも四木三草(しぼくさんそう)と呼ばれる、収益性の高い商品作物を栽培していた。
四木……茶、桑、楮(こうぞ)、漆
三草……麻、紅花、藍
 
●演歌(p270)
演歌は、もともと明治の自由民権運動において弁士たちが演じたパフォーマンスが起源。川上音二郎の「オッペケペ節」など。演説歌。
大正期に入ると、「カチューシャの唄」「船頭小唄」など、大衆芸能化していく。
現在の演歌は、これらとの直接のつながりはなく、1950年代ごろから民謡や浪曲などをベースに作り上げられてきた。
 
●象徴天皇(p307)
昭和21年2月に新聞各紙に発表された調査結果によると、一般国民はすでに「象徴天皇制」の考え方を持っていた。
天皇制支持91%。このうち天皇主権支持16%。天皇が政治から離れ、民族の総家長、道義的中心となることを指示した人は45%。
 
●表彰台(p320)
1964年の東京オリンピックで、開催間際になって表彰台を準備していないことに気づく。
組織委員会は、どの部門で作るかも決めておらず、結局、何でも屋のようになっていたデザイン室に急遽依頼。
デザイナーは、とにかく間に合わせるために、メモ程度の設計図を作り、仕事場から最も近い工務店に駆け込む。
職人はその設計図をちらりと眺め、「オリンピックか」とつぶやき、すぐに作業に取り掛かった。ごく短期間で、揺れも軋みもしない、完璧な強度を持つ表彰台を仕上げてしまった。
この時デザイナーは、日本の職人の持つ技術の高さに大いに感嘆した。
 
(2017/5/18)KG
 
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知らなかった、ぼくらの戦争
 [歴史・地理・民俗]

知らなかった、ぼくらの戦争
  
アーサー・ビナード/編著
出版社名:小学館
出版年月:2017年4月
ISBNコード:978-4-09-388508-9
税込価格:1,620円
頁数・縦:255p・19cm
 
 
 2015年4月~2016年3月に放送された、文化放送の「アーサー・ビナード『探しています』」という番組の中で、戦争体験を語ってくれた23名のインタビューを採録し、加筆・修正したもの。
 日系人あり、有名人あり、市井の人あり、また、地域的にもアメリカ、東京名古屋広島、長崎、沖縄と、インタビュイー選びの幅の広さが際立っている。
 出版時点での物故者も数名いる。だからこそ、いま聞いておかなければ、という著者の思いが伝わってくる。
 また、アメリカ人でありながらアメリカ政府の姿勢を批判的に解釈する姿勢も本書の重要な視点と言える。
 
【目次】
第1章 「パールハーバー」と「真珠湾」と「真実」
 マリは蹴りたしマリはなし(栗原澪子)
 「空母は何隻いたのか?」(原田要)
 あの日からぴたりと白人客は来なくなった(リッチ日高)
 ミシガンのセロリ畑で聞いた「無条件降伏」(浜坂米子)
 生まれた集落の名前は「鯨場(くじらば)」(鳴海冨美子)
 
第2章 黙って待っていたのでは、だれも教えてくれない
 まだあげ初めし前髪の乙女たちは毒ガス島で働いていた(岡田黎子)
 「君は狭間という日本語を知っているか」(飯田進)
 それでもくたばるのはイヤだから(西村幸吉)
 硫黄島は墓場である(秋草鶴次)
 十五歳で日本海軍特別年少兵(西崎信夫)
 
第3章 初めて目にする「日本」
 「外地」は一瞬にして「外国」となった(ちばてつや)
 「日本という国が本当にあった!」(宮良作)
 「疎開」の名の下に「うっちゃられた」(平良啓子)
 
第4章 「終戦」は本当にあった?
 八月十五日は引っ越しの日?(三遊亭金馬)
 ストロボをいっぺんに何万個も(大岩孝平)
 昼飯のだご汁をつくり始めたら(松原淳)
 津々浦々に投下されていた「原爆」(古内竹二郎)
 
第5章 一億総英会話時代
 GHQは東京日比谷で朝鮮戦争の業務を遂行(篠原栄子)
 公園はすべてを見てきた(小坂哲瑯)
 流れに「のっていく」ぼくらの今と昔(高畑勲)
 
【著者】
ビナード,アーサー (Binard, Arthur)
 詩人。1967年、アメリカ・ミシガン州生まれ。ニューヨーク州のコルゲート大学で英文学を学び、1990年の卒業と同時に来日、日本語での詩作を始める。詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞、『ここが家だ―ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞を受賞。
 
【抜書】
●隔離(p39)
〔 一九四〇年代の初め、多くの日系人はまじめに働き、それぞれの地域社会に貢献しながら日々、白人とも黒人ともラテン系とも中国系の人々とも触れ合っていた。そうすると「ジャパニーズも人間なんだなぁ」と、みんな日常生活の中で確認することになる。そんな状況がつづけば、焼夷弾で日本人を万人単位で焼き殺すような作戦は喜ばれず、非難されかねない。ましてや無防備の民間人に原子爆弾を投下するなんて、支持を得られる行為ではまったくない。
 だからこそ日系人を癌細胞のように扱い、アメリカ社会からさっさと摘出したのだろう。
 だれも彼らの人間性に触れることができないように、荒れ地のキャンプに閉じ込めて隔離したわけだ。一九四一年から大々的に始まった「ジャップ」を蔑むプロパガンダのネガティブキャンペーンにも、そんな狙いが透けて見える。〕
〔いずれにせよ、アメリカと日本の関係を考える際、アメリカ政府が日系人に対して行ったことを外してはならないと思う。今までそれが外されてきて、日米の歴史は盲点だらけだ。〕
 
●Little boy、Fat man、Pumpkin(p198)
 Little boy……広島に落とされたウラン弾。ウラン弾は、この1発だけであった。
 Fat man……長崎に落とされたプルトニウム弾。
 Pumpkin……Fat manと同型の爆弾。1万ポンド(5トン)爆弾。長崎に原爆を落とす前に、実験として日本各地30都市に49発が投下された。
 
(2017/5/13)KG
 
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宣教師ザビエルと被差別民
 [歴史・地理・民俗]

宣教師ザビエルと被差別民 (筑摩選書)
 
沖浦和光/著
出版社名:筑摩書房(筑摩選書 0139)
出版年月:2016年12月
ISBNコード:978-4-480-01647-8
税込価格:1,620円
頁数・縦:219p・19cm
 
 
 フランシスコ・ザビエルとイエズス会の宣教師たちは、身分社会で打ち捨てられた下層民を主な対象として、布教活動に専念した。そのため、非人や癩病患者の信徒が多かった。
 ちなみにザビエルは、1549年に日本にやってきて、1551年11月に去っている。その期間は2年あまりであった。その後中国を目指したザビエルは、広東の沖合の小島で没し、そのミイラ化した遺体は、インドのオールド・ゴアのボン・ジェズ教会に今でも安置されているという。
 
【目次】
第1章 “宗教改革”と“大航海時代”の申し子・ザビエル
第2章 ザビエルを日本へと導いた出会い
第3章 ゴアを訪れて
第4章 ザビエルが訪れた香料列島
第5章 戦国時代の世情と仏教
第6章 ザビエルの上陸とキリスト教の広がり
第7章 戦国期キリシタンの渡来と「救癩」運動
第8章 オランダの台頭
第9章 賎民制の推移
第10章 「宗門人別改」制と「キリシタン類族改」制
 
【著者】
沖浦 和光 (オキウラ カズテル)
 1927年大阪生まれ。東京大学卒業。専攻は比較文化・社会思想史。桃山学院大学名誉教授。日本国内の多くの被差別部落を訪れ調査を行った。また、アジア各地の賎民文化についても数多く調査・研究をつづけた。2015年没。
 
【抜書】
●旃陀羅(p116)
 旃陀羅(せんだら)……梵語チャンダーラの音写語。もともとインド亜大陸の先住民を指した。6世紀ごろから「浄・穢」観に基づく身分体系として形成されたヒンドゥー教のカースト制度では、チャンダーラが「不殺生戒」を犯す「穢れた民」の代名詞とされた。つまり、穢れにかかわる「不可触民」とされた。
 日蓮は、自らを「片海の海人の子」=「旃陀羅の子」=「賤民の子」と称した。
 江戸時代の差別戒名にも、「旃陀羅」が見られる。
 
●アルメイダ(p142)
 ルイス・アルメイダ(1525-1583)……日本最初の外科・救癩病院を府内(現大分市)で開設したユダヤ系ポルトガル人。1548年にインドに渡り、海商として活躍して財を成した。イエズス会士のB・ガーゴとたまたま同船して布教活動の実態を聞いて感銘を受け、1552年に来日し、55年には全私財を投じて府内に乳児院を開き、56年にはイエズス会に入って、57年に救癩病院を建てた。
 かつて学んだ医学を生かして自ら治療にあたるとともに、日本人医師の養成にも努めた。
 大分県医師会の病院は、アルメイダの人徳と実践を高く称えて、「アルメイダ病院」と名付けられている。
 
●非人(p160)
 下人……律令体制解体以後、在地村落社会の中で形成されてきた下層の被支配身分。おもに主家に隷属して様々な雑事や補助労働に駆使された下層の民。自らの努力で脱賤化していく道も開かれていた。戦国時代には、この層から出て自らの農地を持つに至る者も出た。
 非人……〔狭義では、「癩病」(ハンセン病)などの重病や家庭の崩壊などによって、世俗社会では見捨てられて生きていけなくなったが、まだ生への執着心を失わない脱落者を指した。〕食物や施物を請い求めるために、特定の坂・宿・野・路などの「乞場(こいば)」に集住して、非人集団を形成した。仲間の頭である長吏法師に統率されていた。
 「下人」は《貴・賤》観にもとづく差別呼称だが、「非人」は《浄・穢》観が色濃く投影された差別呼称。
 河原者……河原者、穢多、細工、庭者などと呼ばれた人たち。広義では中世非人とされていた。獣類の皮剥ぎと皮革加工などに従事した。不殺生戒を犯しているので、「屠沽の下類」と呼ばれた。
 
●戸籍制度(p184)
 古代律令制の時代、班田制のために戸籍が作られた。
 律令制の解体によって班田制が行われなくなると、人頭税としての調・庸が次第に地税に変化してきた。土地台帳は重要だったが、個々の住民を登記した「家別」「人別」の戸籍帳は必要でなくなった。
 平安時代の中期以降には、全国的な荘園制度への移行につれて、造籍作業も次第に廃絶してしまった。
 13世紀の鎌倉時代前期の頃には、ヤマト王朝時代の戸籍制度は完全に消滅してしまった。
 
●ロレンソ了西(p187)
 日本人第一号のイルマン(準司祭)。イエズス会では、司祭をパドレ(バテレン)と呼び、その補佐役をイルマンと呼んだ。
 肥前白石の生まれ。もともと目の不自由な琵琶法師だったが、頭脳明晰で弁舌が得意だった。
 1560年、京で将軍足利義輝に謁して布教を許され、信長や秀吉にも謁し、高山右近や京極高吉など、京畿の有力大名を次々に受洗させた。
 入信させた信徒は3,000名を超えると伝えられている。
 日本におけるイエズス会の実質上の基礎を築いたのは、ロレンソであったと言える。
 
●キリシタン類族改(p209)
 再びキリシタンになることがないように、転宗者とその子孫を監視する制度。当時の宗門改役・北条安房守によって、1687年(貞享4年)から実施された。
 改めの対象は、男系では転キリシタン本人から7世、女系なら4世とされた。改宗者の子孫は、出産・死亡・結婚・移住・旅行に至るまで、そのたびに特別な届け出を義務付けられていた。つまり、転びキリシタンでも、その子孫は100年、200年にわたって厳重に監視されたのである。
 
(2017/5/9)KG
 
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韓国の歴史 増補改訂版
 [歴史・地理・民俗]

韓国の歴史〈増補改訂版〉
 
水野俊平/著 李景 /監修
出版社名:河出書房新社
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-309-22693-4
税込価格:2,160円
頁数・縦:303p・20cm
 
 
 2007年刊行の『韓国の歴史』に新たに第8章を加え、加筆修正して再刊。
 
【目次】
第1章 古代から統一新羅へ
第2章 高麗時代
第3章 朝鮮王朝の成立
第4章 社会の変化と実学
第5章 列強の侵略と近代化
第6章 植民地支配下の朝鮮
第7章 解放から南北分断、そして新時代へ
第8章 新時代を経て、韓国に残された課題
 
【著者】
李 景珉 (リ キョンミン)
 1946年、韓国済州道生まれ。パリ大学政治学部卒。同大学院博士課程を経て、京都大学人文科学研究所に学ぶ。現在、札幌大学文化学部教授。専門は国際関係論、朝鮮政治史。
 
水野 俊平 (ミズノ シュンペイ)
 1968年、北海道出身。北海商科大学教授。天理大学朝鮮学科卒。韓国・全南大学大学院国語国文学科博士課程修了。
 
【抜書】
●古朝鮮(p16)
 古朝鮮(コチョソン)とは、以下の3王朝。
 (1)BC2333年、韓(朝鮮)民族の始祖とされる檀君王倹(タングンワンゴム)が建国した「檀君朝鮮」。
 (2)中国の殷の箕子(キジャ)が建国したとされる「箕子朝鮮」(年代不明)。
 (3)中国の燕から亡命した衛満(ウイマン)が建国した「衛氏朝鮮(ウイシチョソン)」(BC195-BC108)。
 しかし、檀君朝鮮は神話。箕子朝鮮と衛氏朝鮮は、中国の歴史書に登場する。
 
●檀君神話(p21)
〔 天神桓因(ファニン)は、息子・桓雄(ファヌン)に人間世界を治めさせるようにした。桓雄は部下三〇〇〇を率いて太伯山の頂の神檀樹に降臨し、桓雄天王となった。桓雄天王は穀・命・病・刑・善・悪を司って人間を教化した。
 ある時、熊と虎が桓雄に「願わくば人間になりとうございます」と願い出た。桓雄は霊妙なヨモギ一握りとニンニク二〇個を与え「これを食べて一〇〇日の間、日の光を見なければ、すぐに人間になれるだろう」と言った。
 虎は約束を守れなかったが、約束を守った熊は人間の女となった。女が毎日、神檀樹の下に来て身ごもることを祈るので、桓雄天王は女と結婚し、子が生まれた。名前を檀君王倹といった。檀君王倹は平壌城を都とし、初めて朝鮮と称して国を治めた。やがて都を白岳山の阿斯達(アサダル)に移したが、国を治めること一五〇〇年間であった。後に周の武王が殷の箕子を朝鮮の王に封ずると、檀君は隠れて阿斯達の山神となった。〕
 
●朱蒙(p25)
 朱蒙(チュモン)、高句麗の始祖。東扶余あたりの方言で、「弓の上手な者」という意味。河の神河伯(ハベク)の娘・柳花(ユファ)の子、卵から生まれた。
 前漢の武帝の死後、楽浪郡などによる朝鮮半島支配が弱まる。古朝鮮の旧領民によって、何か国かに分かれる。
 北方……扶余(プヨ)、高句麗(コグリョ)、東穢(トンイエ)、沃沮(オクジョ)
 南方……馬韓(マハン)、辰韓(チナン)、弁韓(ピョナン)、伽耶などの小国連合体
 313年、高句麗は楽浪郡と帯方郡を滅ぼし、朝鮮半島から中国勢力を退ける。
 
●花郎(p46)
 新羅では、真興王(チヌンワン、在位540-576)の代に、花郎(ファラン)制度が整備された。
 花郎……学識があり、容姿端麗な上級貴族階級の成年男子が花郎に推戴された。
 花郎の下に花郎徒として多くの青年男子を集めて修養させた。平時は道義によって精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として活動した。
 花郎は、新羅末までに200人、各花郎に属した花郎徒は数百から1,000人を数えた。
 花郎徒の活躍によって、新羅は百済、高句麗との覇権争いを制することができた。
 花郎出身の金春秋は、654年に武烈王として即位。
 660年、唐軍との連合によって百済を滅ぼす。
 668年には高句麗を滅ぼした。
 
●後三国時代(p57)
 892年、後百済建国。
 901年、弓裔(クンイエ)が後高句麗を建国。
 新羅、後百済、後高句麗の三国鼎立の時代に。後三国時代。
 918年、武将の一人王建(ワンゴン)が弓裔を追放し、王位を奪う。国号を高麗とする。
 935年、平和裏に新羅を併合し、936年、後百済を滅ぼして半島統一。
 
●科挙制度(p60)
 958年、光宗は科挙制度を施行。製述科、明経科、雑科、僧科の4つ。
 製述科……儒教思想に立脚した文章をつくる試験。
 明経科……儒教の経典を解釈する試験。
 雑科……いつくかの分野の技術官吏を登用する試験。法律専門家を登用する明法業、計算の専門家を選抜する明算業、書記を担当する官吏を選ぶ明書業、医学の医業、占いをする呪禁業、風水地理の地理業など。
 僧科……僧侶に僧階を与えるために実施。
 
●金属活字(p67)
 1445年のグーテンベルクより早い時期に、高麗に金属活字があった。
 1377年、高麗の金属活字によって印刷された『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』 。1972年にパリの国立図書館で発見された。
 1234年に、『詳定古今礼文』という書籍を金属活字で印刷したという記録がある。
 
●李成桂(p82)
 1392年、李成桂(イソンゲ)が高麗の最後の王の恭譲王(コンヤンワン)から譲位されて王位を継承し、翌年、国号を朝鮮と改めた。 
 
●天主教(p129)
 1637年、李氏朝鮮の仁宗は、「丙子胡乱」において清のホンタイジ(太宗)に降伏し、昭顕世子(ソヒョンセジャ)と鳳林大君(ポンニムテグン)が人質となった。ソウルの南西、オリンピック公園から西に2kmほど離れた漢江のほとりの歴史公園にある「三田渡碑(サムジョンドヒ、大清皇帝功徳碑)」。
 昭顕世子は、1644年、明を征伐する清軍とともに北京へ向かい、そこでドイツ人神父アダム・シャール(1591-1666、中国名・湯若望)と出会い、天主教(キリスト教)や西欧科学に関する知識を学ぶ。1645年、朝鮮に帰国する際、天文、数学、天主教に関する書籍や地球儀、天主像などを持ち帰った。
 その後、昭顕世子は帰国の2か月後に病気で急死(暗殺?)、弟の鳳林大君が仁宗の跡を継いで第17代孝宗となる。
 朝鮮時代の後期、朝鮮に天主教が受容された。海外から入国した宣教師の活動によって教会が作られた日本や中国と異なり、両班知識層の人々が学問研究を通して西学(西洋の自然科学・西洋思想・天主教など)に触れ、自ら天主信仰に目覚め、教会を自主的に作った。中国で活動していた宣教師を通して天主教に接した。
 1784年、李承薫(イスンフン)は、赴京使として訪れた燕京で、朝鮮人として初めて洗礼を受けた。
 1801年、政権を握った老論僻派は天主教に対する徹底的な弾圧を行った。中国人司祭の周文謨、南人派の実学者権哲身、李承薫らをはじめ、教徒300人余りが処刑された。辛酉迫害(辛酉教獄、辛酉邪獄)。
 弾圧によって朝鮮における西洋研究は途絶えてしまった。そのため、19世紀に入ってからの西欧列強の接近に、朝鮮は賢明に対処する力を持てなかった。
 しかし、教徒は増え続け、1830年には9,000人余りになったと言われている。
 1846年には、朝鮮最初の神父・金大建(キムデゴン)をはじめ多くの天主教徒が漢城の漢江の畔で処刑される。丙午迫害。
 
●独立協会(p174)
 1896年7月、朝鮮の自主独立と内政改革のために組織された政治団体。民族の自覚と民権思想を広めるために「独立新聞」を、朝鮮で初めてハングル活字で発刊した。
 
(2017/5/7)KG
  
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文明の海洋史観
 [歴史・地理・民俗]

文明の海洋史観 (中公文庫)

川勝平太/著
出版社名:中央公論新社(中公文庫 か58-2)
出版年月:2016年11月
ISBNコード:978-4-12-206321-1
税込価格:994円
頁数・縦:356p・16cm


 1997年に中公叢書の1冊として刊行された同名書の文庫版。加筆はなく、「文庫版へのあとがき」にて刊行後の状況などを解説。

【目次】
序 新しい歴史像を求めて
起之章 「鎖国」と近代世界システム
承之章 歴史観について
転之章 文明の海洋史観
結之章 二十一世紀日本の国土構想―西太平洋の「豊饒の半月弧」に浮かぶ“庭園の島(Garden Island)”
跋 新しい生き方を求めて

【著者】
川勝 平太 (カワカツ ヘイタ)
 昭和23(1948)年、京都生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業、早稲田大学大学院経済学研究科博士課程修了。昭和60(1985)年、オックスフォード大学から博士号取得。早稲田大学政治経済学部教授、国際日本文化研究センター教授、静岡文化芸術大学学長をへて、平成21(2009)年より静岡県知事。平成8年『富国有徳論』でアジア太平洋賞(特別賞)、平成10年『文明の海洋史観』で読売論壇賞を受賞。

【抜書】
●勤勉革命(p18)
 近代世界システム=産業革命……資源消費型、資本集約型。
 近世江戸社会=勤勉革命……資源節約型、労働集約型。

●知恵蔵(p21)
 〔世界大の諸問題に大国日本は無関心を装える立場にはない。問題解決に貢献しなければならない。そのために迂遠のようだが、近世江戸社会をグローバルな観点から見直すことに、鍵があるように思われる。気づかれていないが、近世江戸社会の知恵蔵はまだ半開きである。グローバルな観点からその知恵蔵を開けるときがきたように思われる。〕

●醤油(p39)
 日本は、醤油のお陰で、東南アジアの香辛料に頼らずに済んだ。世界のほとんどの地域の料理には、香辛料が必要。
 醤油は、鎌倉時代に日本で独自に発明された。禅僧が中国からもたらした径山(金山)寺味噌製造過程で出る溜(たまり)を改良。室町時代以降に広く普及する。

●14世紀の危機(p49)
 ウォーラーステイン『近代世界システム』。ヨーロッパ世界経済は1450~1640年頃に大西洋を囲む大陸で中核、半辺境、辺境の三重構造をもって成立する。その原因は、14世紀のヨーロッパ全域に起きた「危機」である。
 14世紀の危機……技術進歩のない封建制の元での土地の疲弊、戦争の勃発、14世紀半ばからヨーロッパ全土を間欠的に襲った疫病。
 14~15世紀、ユーラシア大陸は寒冷な気候だった。
 疫病説……マクニール。ヨーロッパの人口の三分の一が失われた。信心深き者も神に仕える者も無差別に襲った疫病は、中世の権威であった宗教に対する懐疑を生み、その原因を求める中から近代の科学精神の土台が作り出された。また、薬として利用されていた胡椒や香辛料を求めて地理上の拡大がもたらされた。

●イスラムの湖水(p182)
 アンリ・ピレンヌ(1862-1935)、ベルギーの歴史家。「マホメットとシャルルマーニュ」(佐々木克巳編訳『古代から中世へ』創文社歴史学叢書、1975年)。
 ヨーロッパ古代と中世との画期は、北方の蛮族によるローマ文明の破壊ではなく、南方から襲ったイスラム勢力の外圧である。地中海は、古代にあっては「ローマの湖」だったが、中世には「イスラムの湖水」になり、ヨーロッパは閉め出された。
 シャルルマーニュ率いるキリスト教軍がツール・ポアチエの戦い(733年)でイスラム軍を破り、両者はピレネー山脈を挟んで対峙することになった。ヨーロッパは、陸地に閉じ込められることになり、文化的統一体としての形を整えた。それが中世。「イスラームなくしては、疑いもなくフランク帝国は存在しなかっただろうし、マホメットなくしては、シャルルマーニュは考えることができないであろう」(ピレンヌ)。
 フランク帝国は9世紀から11世紀まで封鎖状態に置かれた内陸国家だったので、必然的に土地が唯一の富の源泉となる新しい経済秩序すなわち封建制を生み出さざるを得なかった。

●倭寇の時代(p195)
 14~16世紀の300年間は、倭寇の時代。元寇の失敗で、中国はシナ海の制海権を失い、日本が海洋進出する。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗により、海洋志向が終焉。
 関ケ原の合戦(1600年)により、海洋志向の西軍が陸地志向の東軍に敗れる。⇒ 鎖国、海禁へ

●港市システム(p211)
 15~16世紀の東南アジア海域は、アラブ・イスラム文明、ヒンズー文明、中華文明等から多数の商人がそれぞれの文明の諸物産を持って訪れ、「商業の時代」を現出した。
 東南アジアの海洋ネットワークは「港市(port of trade)」システムと呼ばれる自由な交易システム。
 18世紀後半から東南アジアに進出したイギリス商人(カントリー・トレイダー)は、港市システムに倣い、本国政府に向かって自由貿易を主張、東インド会社の貿易独占に反対して、ついに解散に追いやった。彼らはイギリスの自由貿易の担い手になる。ジャーディン・マセソン、スワイヤーなど。
 自由貿易の原型は東南アジア。

●太平洋=多島海(p223)
〔 西太平洋は、日本のほか、フィリピンやインドネシアなど、世界で最も多くの島からなる世界である。それはまさに島的世界である。島は海を存在の条件としており、さまざまな陸地世界とさまざまな海域世界を併せ持つ世界として太平洋は「多島海」と言えるだろう。アメリカも中国も、ますます自己完結できなくなり、相互依存のネットワークのなかに組み込まれ、太平洋全体が多島海的世界として形成される可能性が高い。〕

●無主(p225)
〔 情報革命は近代のパラダイム転換を生むものと予想される。まず、私的所有権が富国の基礎であった「近代」が終わる可能性がある。情報は分けても減らず、分けると増えつつ共有される。情報は個人の排他的な所有には適さない。情報は共有を志向する。情報に関わる権利・義務関係や私的所有権の脈絡で「知的所有権」として議論されているが、情報の帰属は所有権として処理するのはなじまない。現在進行中の情報化の波は近代のパラダイムを支えてきた私的所有権の根幹をゆるがす可能性をはらんでいる。なぜなら、情報や知識は譲渡によってはなくならないし、不動産や動産(物)のような形がないので、移動の事実を確定しがたいからである。また、新しい情報の帰属権が誰にあるかを決定するのも、情報の所有権の侵害を防止したり確認するのも、容易ではない。情報はより多くの人に所有(共有)される運動をはらんでいる。いいかえれば、誰の排他的所有にもならないことを本質とする情報は、無主であることを求める。それは海洋のもっている性質に近い。そのひろがりはグローバル(地球大)である。地球大に広がりうるものは、すべての者のものであるとともに、誰のものでもない。高度情報化によって社会内部、社会間のネットワークの密度が濃くなることが、陸に根を張ることによってある種の排他的性格をもっている陸地史観の歴史像をなしくずしにしていくであろう。文明の海洋史観の試みはこのような地球時代的状況と無縁ではない。〕

●『東西文明之調和』(p232)
 大隈重信は、晩年、「東西文明の調和」をとなえ、それを実践するために1908年に大日本文明協会を創設し、数百巻の文明叢書を刊行した。
 〔佐藤能丸『近代日本と早稲田大学』(一九九二年 早稲田大学出版部)によれば、明治初期の明六社、自由民権期の共存同衆の活動の比ではなく、世界文明の発展に寄与しうる国民を育成しようとした国民的文化運動であった。〕
大隈重信『東西文明之調和』1922年。大隈没年の出版。おもにギリシャ・ローマ文明に対し、東洋古代の仏教・儒教を意識。東洋文明は精神文明として自覚されている。
 脱亜入欧の福沢諭吉とは対照的。

●敗戦(p269)
 日本は、戦争で負けた相手国のシステムを受容し、相手から離脱して自立するという過程を繰り返してきた。
 ① 白村江の海戦で唐に敗れ、「倭国」が滅び、唐の政治システムを取り入れて「日本」という国号を定めた。天皇の称号を作り、都城制、律令、正史という唐の政治システムの三本柱を入れた。
 ② 秀吉が日明戦争で敗れると、明の経済システムを入れて、中国に勝る経済社会を作り上げた。
 ③ 薩英戦争、下関戦争で敗れると、西欧の軍事システムを取り入れた。海軍はイギリス流、陸軍はフランス流→ドイツ流。普仏戦争でフランスが敗れたことにより転換。
 ④ 第二次世界大戦後は、アメリカの生活文化、民主主義を取り入れた。

(2017/4/15)KG

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忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち
 [歴史・地理・民俗]

忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち

高尾善希/著
出版社名:KADOKAWA
出版年月:2017年1月
ISBNコード:978-4-04-400208-4
税込価格:1,836円
頁数・縦:315p・19cm


 「伊賀者」松下家に江戸時代より代々伝わる古文書をもとに、江戸の下級武士「御家人」の生活をたどる。
 資料の大部分は、松下家5代目の菊蔵(善左衛門)によるもの。明屋敷番、西之丸山里番、西之丸御広敷御用部屋書役、本丸御広敷御用部屋書役、御簾中(徳川家治正室五十宮倫子〈いそのみやともこ〉)御侍、御台所(五十宮倫子)御広敷添番などを務めた。真面目で筆まめな人であったようである。彼のお陰で、松下家は伊賀者(羽織袴格)から昇進して常裃格へとなった。しかし、家禄は20俵2斗6升2合5勺二人半扶持のままであった。

【目次】
第1章 伊賀者とは何か
第2章 松下家、草創の時代
第3章 谷の中の伊賀者たち
第4章 最初の養子、松下伊太夫
第5章 伊賀者から大奥の事務官へ
第6章 伊賀者からの離脱

【著者】
高尾 善希 (タカオ ヨシキ)
 1974年2月、千葉県千葉市生まれ。立正大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導修了満期退学。博士(文学)。元東京都公文書館史料編さん係専門員(専務的非常勤職員)。元武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館学芸員(嘱託)。現在、立正大学文学部史学科非常勤講師。そのほか、首都圏各地で歴史講座・古文書講座の講師を務める。専門は徳川時代史。

【抜書】
●紀州伊賀者(p24)
〔 七代将軍徳川家継没後、紀州藩主であった八代将軍徳川吉宗が徳川将軍家を継承したおり、吉宗は紀州藩士のいくらかを幕臣として召し抱えた。その中に伊賀者に編入された者たちもいた。彼らは伊賀国出身の家系をもたない者であり、れっきとした紀州人である。伊賀者は役職名であるから、紀州人が伊賀者になったとしても差し支えないのである。このいわゆる「紀州系伊賀者」は、やがて分派して御庭番となり、幕府の諜報活動に従事するようになった。〕深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』中公新書、1992年。

●御新造様(p29)
 御目見以上(大名、旗本)……当主=殿様、その妻=奥様。召使やその他の下の身分の者からの呼称。
 御目見以下(御家人)、陪臣、浪人……当主=旦那様、その妻=御新造様。

●伊賀国(p41)
〔 そもそも伊賀国・近江国甲賀郡は、地侍層がひしめいて存在する地域であり、彼らは忍者として、その地域の中で闘争や、他国への軍事的な出稼ぎによって活動していた。伊賀者・甲賀者は時に互いに戦うことはあったものの、交誼を結ぶことが多く、通婚関係もあった。
 伊賀国は中世城郭が六一九も確認されており、分布密度は全国一であるという(近江甲賀群も同様の地域である)。伊賀国はどの大名領にも属さない、独立性の高い地域として知られ、「惣」という地侍層による自治運営がなされていた。〕

(2017/4/5)KG

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