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忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国
 [歴史・地理・民俗]

忘れられた黒船 アメリカ北太平洋戦略と日本開国 (講談社選書メチエ) [ 後藤 敦史 ]
 
後藤敦史/著
出版社名:講談社(講談社選書メチエ 651)
出版年月:2017年6月
ISBNコード:978-4-06-258654-2
税込価格:1,998円
頁数・縦:299p・19cm
 
 
 「黒船」ペリーと同時期に、米清の大圏航路を開拓すべく、北太平洋の測量に出発したもう一つの「黒船」艦隊の顛末を描く。
 
【目次】
序章 ペリー来航史観の陥穽
第1章 十八~十九世紀の太平洋世界
第2章 海原への「明白な天命」
第3章 わきあがる対日遠征論
第4章 もうひとつのアメリカ艦隊
第5章 ペリーの影
第6章 いよいよ日本へ
第7章 ロジャーズ来航
第8章 歴史の波間に
終章 太平洋からみる日本開国
 
【著者】
後藤 敦史 (ゴトウ アツシ)
 1982年福岡県生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位修得退学。日本学術振興会特別研究員、大阪観光大学国際交流学部専任講師を経て、京都橘大学文学部准教授。博士(文学)。専攻は幕末政治・外交史。
 
【抜書】
●レディ・ワシントン号(p26)
 1791年、紀伊大島に2隻のアメリカ船、レディ・ワシントン号とグレイス号が来航した。ラッコの毛皮の交易船。歴史上初の日米交渉。
 レディ・ワシントン号の船長ジョン・ケンドリックは、コロンビア号に乗って北太平洋海域でラッコ漁をし、中国に寄港。コロンビア号の船長が裏切り、先にボストンへ帰還。
 毛皮の交易を試みるため、日本に寄港。しかし、日本で毛皮の取引はできないと知り、来意を告げないまま、10日ほどの滞在で日本を離れる。
 
●ラナルド・マクドナルド(p45)
 1848年6月、捕鯨船に乗っていたマクドナルドは、単身で利尻島へ上陸。ボートでの漂着を装って日本への上陸を試みる。
 オレゴン州生まれのマクドナルドは、母親が先住民チヌーク族のメイティ(混血民)。差別に絶望し、日本をチヌーク族の祖先の地と考え、日本行きを決意した。
 松前藩により長崎に護送され、長崎のオランダ通詞たちに英語を教える。日本初の英語教師。
 1849年4月、ラゴダ号の旧船員15名とともに、アメリカ東インド艦隊に所属するプレブル号にて帰国。
 
●太平洋探検隊(p51)
 1838年4月、海軍大尉チャールズ・ウィルクスを司令長官のもと、アメリカの太平洋探検隊がヴァージニア州ノーフォークを出航。42年に帰港。
 ヴィンセンス号を旗艦とし、ピーコック号、ポーパス号、シー・ガル号、フライング・フィッシュ号、リリーフ号の計6隻。アメリカが太平洋探検における遅れを取り戻すべく、国家的威信をかけて艦隊を派遣。
 
●北太平洋測量艦隊(p117)
 司令長官カドワレイダー・リンゴールド。ウィルクスの探検隊にも参加。
 旗艦はヴィンセンス号……700トン、スループ船、200人乗艦。1846年、ジェームズ・ビッドルが浦賀を訪問した際に引き連れていた艦船。
 ジョン・ハンコック号……蒸気船、70人乗艦、ジョン・ロジャーズ艦長(2代目の司令長官)。
 ジョン・ケネディ号……補給艦。ニューヨークで購入された350トンの商船。40人の乗艦。
 ポーパス号……ブリッグ艦、224トン、70人乗艦。
 フェニモア・クーパー号……スクーナー艦、95トン、20人乗艦。
 1853年6月11日、ノーフォーク出航。
 1854年11月16日、ヴィンセンス号が那覇に入港。水先案内人の派遣もなく、要求した食料の提供も十分に行われなかった。ペリーが締結した琉米協約が守られていないことを知る。
 同12月28日、鹿児島湾の山川へ停泊。立ち退きを求められる。(p176)
 1855年5月13日(安政2年3月27日)、ヴィンセンス号、ハンコック号が下田入港。幕府に測量の許可を求めるが、即答を得られず、5か月後に再訪する旨を伝えて出航。幕府は、不許可の方針を出すが、ロジャーズらの再訪はなかった。(p202)
 
(2017/9/17)KG
 
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イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応
 [歴史・地理・民俗]

イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応 [ 米倉 誠一郎 ]
 
米倉誠一郎/著
出版社名:東洋経済新報社
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-492-37120-6
税込価格:2,160円
頁数・縦:313p・20cm
  
 
 幕末から明治期において、日本の発展を促した政府、企業家たちの創造的対応にフォーカスして近代史を顧みる。
 
【目次】
第1章 近代の覚醒と高島秋帆
第2章 維新官僚の創造的対応―大隈重信志士から官僚へ
第3章 明治政府の創造的対応―身分を資本へ
第4章 士族たちの創造的対応―ザ・サムライカンパニーの登場
第5章 創造的対応としての財閥―企業家が創り出した三井と三菱
第6章 科学者たちの創造的対応―知識ベースの産業立国
終章 近代日本の創造的対応を振り返る
 
【著者】
米倉 誠一郎 (ヨネクラ セイイチロウ)
 1953年東京都生まれ。一橋大学社会学部、経済学部卒業。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。ハーバード大学歴史学博士号取得(Ph.D.)。1995年一橋大学商学部産業経営研究所教授、1997年より同大学イノベーション研究センター教授。2012~14年はプレトリア大学GIBS日本研究センター所長を兼務。2017年4月より一橋大学イノベーション研究センター特任教授、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授。
 
【抜書】
●風説書(p21)
 幕府は、風説書という形でオランダ、清、朝鮮の情報を仕入れていた。
 『和蘭風説書』……対日貿易の見返りとして、オランダ商館長より、江戸幕府に提出された。世界情報の報告書。オランダ語の原文も提出させた。1641~1854年、毎年提出された。
 『別段風説書』……アヘン戦争(1840~1842年)以降、『和蘭風説書』に加えて、より詳細な世界報告を要求した。長崎で翻訳されたもの、江戸で翻訳されたもの、原文の3種類が残っている。
 『唐国風説書』……清国との貿易によって、清国側によるアヘン戦争の顛末も入手。
 幕府は、アヘン戦争に関する情報を単一の情報源に頼らず、三つの、しかも中国とオランダという対極的な複数のソースから仕入れていた。
 
●通商和平(p41)
 開国に対する高島秋帆の考え方。1855年「海外交易の建議(嘉永の上書)」による。
 ① 日本のような小国は海外貿易によって国を建てることが重要であり、有用なものを無用のもので替える、というしたたかな交易法である。
 ② また、海外の良いものは積極的に取り入れて学び、自国の足りない部分を補完すべきである。
 
●自己矛盾(p77)
〔 明治維新は、封建体制の末端に所属した下級士族によって主導された点で、ブルジョワ革命とは異なる。封建体制を打倒したその主体が、打倒すべき封建制の一部だったからである。したがって、明治維新政権とは近代化が進むにつれ、いずれ自己否定をせざるを得ないという自己矛盾をはらんだ体制であった。〕
 明治維新は、先進的な下級士族に主導された「ブルジョワ革命」と、尊王攘夷を掲げた「絶対主義革命」の両者が同時並行した日本独自の革命形態。
 
●金禄公債証書(p85)
 幕藩体制下で支給されていた俸禄(年俸)を一定の計算式で数年分に合算し、その総額を通常年7%の利付公債として士族に支給した。
 大名とその家臣団約19万世帯が対象。
 秩禄処分が、封建体制における身分の「有償」撤廃であった。イノベーティブな点は、旧士族の特権と身分を一時金で買い取ったこと。
  
 ●笠井順八(p94)
 1835-1919年。旧萩藩士、小野田セメントの創業者。下級士族有田甚平の三男として生まれ、7歳の時に笠井英之進の養子となる。
 1848年、再建された藩校明倫館に入学、藩校席次第2位の好成績を修める。しかし、「身分が低い」ことを理由に、成績上位3名による藩主へのご進講から外される。憤りを覚え、自主退学。独学で学問を続ける。
 ペリー来航後、長州藩は相模湾三浦岬の沿岸線警備を担当することになり、笠井も江戸に上る。江戸藩邸で財務経理官として2年ほど勤務。
 維新後の藩政改革で、会計局庶務方助役となり、旧藩財政の残務整理と藩札整理に当たる。
 1880年(明治13年)、士族13名の同志を募り、セメント製造会社を設立する。「士族就産金拝借願」を山口県に提出し、士族授産金を受ける。その担保として士族たちに発行された七分利付金禄公債を抵当に差し出す。資本金88,000円の株式会社を発足。金禄公債額面50円に対して1株を発行。
 中下級士族たちの「士族の士族による士族のため」の創業。
 株式会社の形態……現金出資ではなく、公債出資という変則形態。実際には、公債所有権は出資士族に残したまま、それを担保に借入金をして資本調達をする形をとる。その結果、公債から生じる年7%の利子は株主に配当され、事業が継続している限りは公債からの収入が保証される。
 
●陸軍大阪砲兵工廠(p107)
 小野田セメントは、工場建設において、主要機器は陸軍大阪砲兵工廠に発注した。発注にあたり、工部省赤羽工作分局、海軍築地兵器製造所、工部省兵庫造船局にも見積もりを出したが、大阪砲兵工廠が最も安価であった。
 大阪砲兵工廠は、当時、多数の民間用蒸気機械や旋盤などを製造していた。発展していなかった民間の機械生産を代替。日本の工業化を切り開く先達となった。
 
●2500人(p124)
 第二次世界大戦後、GHQが実行した「経済人パージ」において、第一線から追放された企業のトップ経営者は、財閥傘下企業約500社の2,500人近くにのぼった。
 
●三井高利(p128)
 三井の創業者。1622年(元和8年)、伊勢国松坂の地方商人の四男として生まれた。
 1673年(延宝元年)、50歳の時に、江戸に出て越後屋と呼ばれる呉服店を開業した。
 このころ、江戸の伝統的な呉服屋は、基本的に定価をつけず、馴染みの客を店内に呼び込み、個別交渉による掛け売りで商売を行っていた。顧客は信用のある武士や豪商。
 越後屋は、「店前売り」と「現金安売り掛け値なし」の定価販売によって中産階級の人気を博した。開業10年後の1683年には、大規模な両替業も営むようになる。呉服店、両替商とも幕府御用達となる。
 高利死後に三井家を継承した三井高平は、高利の残した膨大な遺産を分割せず、共有財産として相続管理することを決めた。1710年、「三井大元方」(ある種の持ち株会社)を設置。9つの家族(のちに11家族)から構成され、呉服屋や両替商の経営を共同管理し、事業ばかりか家族のあり方も厳しく統制する組織だった。「三井家家憲」も制定。年に2度、事業からの収益を各家の持ち分に応じて配当。
 
●三野村利左エ門(p131)
 三井は、幕末、創業以来初めて、三野村利左エ門(1821-77、当時は美野川利八。出羽庄内藩出身)という新興商人を番頭に引き抜いた。
 三野村は、明治政府が樹立されると、維新政府への財政支援を開始した。まず、太政官札の流通を請け負う。ほかにも、政府の金融、両替、貿易における重要な仕事を次々に請け負う。大蔵省(会計官)の為替方御用、貿易商社代表、為替会社代表、伊豆七島産物売り捌き、北海道物産販売促進、など。
 1876年、三井銀行設立。その際、不振だった呉服業を分離。三越家という分家を創設し、そこに譲渡。三井組を解散する。資本と経営の分離を促す。
 この改革を通じて、三野村は三井大元方総括に任命され、三井家家政についての全権を託された。
 
●三菱商船学校(p179)
 1875年11月、隅田川河口の霊岸島に設立。明治政府は、三菱に船舶を譲渡する条件として、船員養成学校の設立を命じた。台湾出兵で、船舶運航技術の重要性を認識したため。
 1888年、東京商船学校として三菱から独立。
 
●多角化戦略(p195)
〔 財閥とは、近代化初期に生じる経営資源(特に人材)の希少性に俊敏に対応し、その多重利用を通じて事業の多角化を達成した組織的イノベーションの結果であった。したがって、その中心業務は政府の財政機能を補完するような金融・通商・海上運輸業務、あるいは資源関連の鉱工業や官営工場によって移植された事業の払い下げ分野に集中した。
 しかし、日本の近代化は、いわゆる財閥が担った金融・海運産業、鉱工業部門や移植産業に続いて、輸入代替を目標に国産化された産業あるいは知識ベースで創出された新産業が出現することでさらに進展した。旧財閥の経済活動の限界を埋め、重化学工業部門における新産業創出を担ったのが、いわゆる新興財閥であった。〕
 
●芋蔓式経営(p258)
 理研コンツェルンは、大河内正敏の主導のもと、芋蔓式経営を行った。
 芋蔓式経営……大河内が、ドイツのアルコール製造業者のビジネスモデルをもとに考案した経営手法。ドイツのアルコールは、芋を原料にしている。芋農家を後方統合し、芋の副産物として出る蔓や葉を飼料として養豚業を営む。さらに、豚を加工して酒のつまみとなるソーセージを作る。本業のアルコール製造と補完関係にある農業、養豚業、食品加工業といった具合に多角化していくビジネスモデル。
 
(2017/9/16)KG
 
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海賊の世界史 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで
 [歴史・地理・民俗]

海賊の世界史 - 古代ギリシアから大航海時代、現代ソマリアまで (中公新書)
 
桃井治郎/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2442)
出版年月:2017年7月
ISBNコード:978-4-12-102442-8
税込価格:929円
頁数・縦:270p・18cm
 
 
 海賊の活躍を描く西洋史。
 ローマのキケロは「人類の敵」と称したらしいが、海賊たちは単なる略奪者ではなく、虐げられた者にとっては英雄でもあり、時に国家に利益をもたらす愛国者(?)でもあった。そんな複雑な存在である海賊たちの歴史をたどる。
 
【目次】
第1章 海賊のはじまり
第2章 海賊の再興
第3章 二つの帝国
第4章 黄金期の海賊
第5章 海賊の終焉
第6章 現代と海賊
 
【著者】
桃井 治郎 (モモイ ジロウ)
 1971年、神奈川県に生まれる。筑波大学第三学群社会工学類卒業、中部大学大学院国際関係学研究科中退。博士(国際関係学)。中部高等学術研究所研究員、在アルジェリア日本国大使館専門調査員などを経て、中部大学国際関係学部准教授。専攻・国際関係史、マグレブ地域研究、平和学。
 
【抜書】
●カエサル(p20)
 ユリウス・カエサルは、ロードス島での遊学を終えてローマに戻る途中、キリキア(トルコ南部海岸)海賊に囚われた。
 海賊から身代金20タラントンを要求されると、お前たちは一体だれを捕えたのか知らずにいるのだとあざ笑い、自分の方から50タラントンやると約束した。金の調達のために、自分の部下をそれぞれ各地の町々につかわした。
 側近の友一人と従者二人とともに、38日間、海賊の中で過ごす。
 自分が眠ろうとするたびに人をやって連中に黙るように命じた。
 海賊と一緒にゲームを楽しんだり、ともに体育訓練をしたりした。
 詩や演説をいくつか物し、海賊を聴衆に仕立てが、褒めない者には面と向かって無学盲目の輩とか野蛮人めと叫び、笑いながら、しばり首にするぞと脅すこともしばしばであった。しかし、相手は面白がって、この遠慮のない言葉を一種の無邪気な冗談程度に考えていた。
 部下が調達してきた身代金と引き換えに解放されたが、その後、ローマにもどらず近隣の港に出向いて船団を編成すると、海賊の停泊地に向かい、キリキア海賊たちを一網打尽にする。「しばり首にするぞ」という予告通り、磔にして処刑してしまう。
 『プルタルコス英雄伝』「カエサル」による、青年カエサルの武勇伝。
 
●ヴァンダル族(p40)
 北アフリカ最大の都市カルタゴを征服したヴァンダル族のガイセリック王は、440年、数万の兵を率いて、シチリア島やサルデーニャ島、南イタリア各地を襲撃する。
 455年には、14日間にわたってローマ掠奪を行う。
 ヴァンダルあるいはヴァンダリズムという言葉は、文化や芸術の破壊者あるいは破壊行為という意味の単語として定着することになった。
 
●二大帝国(p78)
 1453年、オスマン帝国がコンスタンティノープル征服、ビザンツ帝国滅亡。
 1492年、スペイン帝国がグラナダを陥落、レコンキスタ完遂。
 地中海の東西に、イスラム教とキリスト教の二大帝国が並び立つ。
 
●バルバロッサ兄弟(p83)
 バルバロッサ(赤ひげ)兄弟ウルージとハイルッディンは、メフメト2世に征服されたレスボス島に生まれる。父親はムスリム商人(もしくはキリスト教徒の貧しい陶工?)だった。稼ぎのいい海賊稼業に身を投じる。
 アルジェを占拠。
 兄のウルージの死後、ハイルッディンは、スペイン帝国と対峙するために、オスマン帝国にアルジェを属州として差し出し、アルジェ総督となる。
 1534年、スレイマン1世はハイルッディンにオスマン艦隊の整備を命じ、北アフリカ総督に昇格させる。チュニス攻略。
 しかし、ジェノヴァ出身のアンドレア・ドーリアの指揮するスペイン艦隊にチュニスを奪われる。
 チュニス再攻略のためにイスタンブールに赴いたハイルッディンに対して、スレイマン1世はオスマン帝国海軍の大提督に任命する。海賊から身を興し、大帝国の提督に上り詰める。イタリア南部の襲撃を命じられる。
 
●エスパニョーラ島(p139)
 1502年に、エスパニョーラ島に渡ったキリスト教の伝道師ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。インディオは、すすんで食べ物を差し出したが……。
 「エスパニョーラ島は、先述のとおり、インディアスへ渡ったキリスト教徒が最初に足を踏み入れ、住民に甚大な害と破壊をもたらしたところであり、また、キリスト教徒がインディアスでまっさきに破壊し、壊滅させた場所でもある。
 そのエスパニョーラ島で、キリスト教徒はまずインディオから女性や子どもを奪ってかしずかせ、虐待し、さらに、インディオが額に汗水流して手に入れた食物を取り上げて食べてしまった。インディオは各自出来る範囲で、キリスト教徒にすすんで食物を差し出したが、彼らはそれだけでは満足しなかったのである。
  :
 じつに稀有なことだが、インディオが正当な理由と神の正義にもとづいて、時にキリスト教徒を数名、手にかけることがあった。すると、キリスト教徒はそれを口実に、インディオがキリスト教徒の生命をひとつ奪うごとに、その仕返しに一〇〇人のインディオを殺すべしという掟を定めたのである。」
 
●フランシス・ドレーク(p145)
 フランシス・ドレーク、1534年頃~96年。イギリスの海賊にして英雄。エリザベス女王も陰で援助していた。プリマス市長を務めたこともあり、プリマスの公園に銅像が立っている。
 スペインに対抗するため、パナマや南米の太平洋岸で略奪行為を働く。その航海にて、ゴールデン・ハインド号は、マザランに次いで人類史上2度目の世界周航を果たす。途中、ホーン岬と南極大陸との間のドレーク海峡を発見。
 ドレークの持ち帰った莫大な財宝は、イングランドの対外負債の返済とレヴァント会社の出資金となった。さらにレヴァント会社の収益から東インド会社が設立された。J・M・ケインズは、「(ドレーク遠征による収益が)イギリスの対外投資の基礎になった」と記す。〔そうなると、イギリスに始まる近代資本主義の基礎は海賊がつくったことになるのである。〕
 スペインとの海戦でも活躍、無敵艦隊(アルマダ)を破る。
 
●バッカニア(p157)
 バッカニア……カリブ海の海賊の呼称。
 もともと、エスパニョーラ島西部に入り込んだフランス人が、野生化していた牛や豚の狩猟を行って燻製肉を製造し、船などに売って生計を立てていた。現地で木製の燻製用網を意味する「ブーカン」という単語から、フランス語で「ブーカニエ」、イギリスで「バッカニア」と呼ばれるようなる。
 その後、彼らは海に進出し、スペイン船を襲う海賊となった。
 
●私掠(p157)
 16世紀以降の海賊行為は、海賊と私掠に分けることができる。
 私掠……狭義には、国王などから交戦国の領地や船舶を襲う許可状である私掠状を得た船が行う略奪行為。戦争行為の一環として位置づけられる。
 多くの場合、私掠状は海賊行為を正当化する名目に過ぎなかった。
 
(2017/9/2)KG
 
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世界文明史 人類の誕生から産業革命まで
 [歴史・地理・民俗]

世界文明史: 人類の誕生から産業革命まで
 
下田淳/著
出版社名:昭和堂
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-8122-1622-4
税込価格:2,592円
頁数・縦:288p・21cm
 
 
 著者による独自の人類文明史。「コア文明」という概念を梃子に、西欧中心の現代史観を是正しようという試みである。
 
【目次】
第Ⅰ部 文明の誕生と謎
 第1章 人類の誕生と拡散―「出アフリカ」から東西ユーラシア人へ
 第2章 文明成立の転換点―道具の飛躍的発展と農耕の発明
 第3章 古代最大の謎―シュメル人とは何者か
 
第Ⅱ部 文明の新たな定義「コア」
 第4章 ユーラシアの「コア文明」―中東・中国・インド
 第5章 アフリカとアメリカの「コア文明」―西アフリカ・メソアメリカ
 
第Ⅲ部 文明の媒介としての「移動民」
 第6章 ユーラシア・コア文明と騎馬遊牧民―陸上の道を制した東ユーラシア人
 第7章 インド洋交易とヨーロッパ―海上の道を制した西ユーラシア人
 
第Ⅳ部 文明と「高等宗教」
 第8章 中東コアの「高等宗教」―ユダヤ・キリスト教からイスラムへ
 第9章 インドコアの「高等宗教」―何でも呑み込むヒンドゥー教
 第10章 中国コアの「高等宗教」―儒教・道教・仏教が混淆した中国教
 
第Ⅴ部 新しい「コア文明」ヨーロッパ
 第11章 封建制社会とフランス革命―テクノロジーと資本主義の成立基盤
 第12章 産業革命と近現代文明―テクノロジーと資本主義の一体化へ
 
【著者】
下田 淳 (シモダ ジュン)
 1960年埼玉県生まれ。1983年青山学院大学文学部卒業。1990年ドイツ・トーリア大学歴史学科退学。現在、宇都宮大学教育学部教授。専門はドイツ宗教史、博士(歴史学)。
 
【抜書】
●道具の飛躍的発展(p34)
 文明の成立(約5千年前)以前に、4万~2万年前に道具の飛躍的発展があった。石器の多様化(細石器)、槍投器、骨角器、土器、など。
 4万年前からが、最終氷期で最も寒かった時期。特に2万1千~1万8千年前は、最も過酷な時期だった。この時期、ホモ・サピエンスは世界的規模で食糧不足に陥った。食料を効率的に捕え、調理するために道具を作る必要に迫られた。
 最終氷期末からの温暖化は、食料の増加をもたらした。その結果が、定住と戦争の出現。
 
●ヤンガー・ドリアス期(p35)
 約1万4500年前頃、最終氷期が終わった。
 1万2900年前に、「ヤンガー・ドリアス期」という亜氷期に逆戻り、1万1600年前頃、ようやく温暖化。1300年間、現在より、平均気温は7~8度低かった。
 ヤンガー・ドリアス期にムギ類と稲の栽培化が始まったとする説がある。
 最終氷期が終わり、技術革新と温暖化で食料が増えたので、人口が急増した。乱獲を生み、生態系を破壊。ヤンガー・ドリアスの亜氷期に食料が激減。これを乗り越えるために、農耕を始めざるを得なかった。
 シリア北西部の遺跡から、1万3000~1万2500年前の栽培化されたと見られるライ麦種子が見つかっている。
 温暖化して野生の食料が手に入るようになっても、面倒な農耕を継続させたのはなぜか? ムギ類や稲やイモ類などの「文明の基盤食」が美味しかったから。
 
●牧畜(p39)
 農耕とともに牧畜も始まった。
 最も早く家畜化されたのは犬。遺伝子の研究によると、遅くとも1万5千年前、中央アジア(中国より)と言われている。
 最初の牧畜がどこかは不明。鶏と豚は中国、牛はインド、山羊と羊は中東と考えられているが、先後は不明。
 
●四大文明(p58)
 最初に「古代四大文明」(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)を唱えたのは、中国の梁啓超(1873-1929)。当時中国は、列強の半植民地状態だった。
 1899年大晦日、渡米途上の太平洋上で創った「二十世紀太平洋歌」のなかで、古代文明の祖国は「四つ」であり、中国、インド、エジプト、安息(アルケサス朝パルティア=小アジア)とした。
 文明を三期に分け、第一期「河流文明時代」、第二期「内海文明時代」(地中海、ペルシア湾、アラビア海、インド洋、黄海、渤海)、第三期「大洋文明時代」(太平洋、大西洋)とした。
 
●アルファベットの誕生(p66)
 シュメルの絵文字は「表語文字・音節文字」、ヒエログリフは「表語文字・アルファベット」だった。
 BC1500年頃、最古の「完全アルファベット」(音素のみからなる文字体系)が考案された。パレスチナの「原カナン文字」。ヒエログリフをもとに、カナン語をアルファベットだけで表記した。30字未満の子音字。
 少し遅れて、楔形文字でシリアのウガリット語を表記した「ウガリット文字」が登場。30字未満の子音字。
 原カナン文字 ⇒ フェニキア文字、アラム文字(ともに22子音字)
  フェニキア文字……ギリシャに伝わり、ヨーロッパのアルファベットの起源に。 ⇒ ギリシャ文字、ラテン文字、キリル文字
  アラム文字……中東コアで使用された。新バビロニア、アッシリア、ペルシア帝国の公用文字になる。旧約聖書もアラム文字で書かれた。 ⇒ ヘブライ文字、アラビア文字
 イエス・キリストは、アラム語で説教した。
 
●ザラスシュトラ(p73)
 ゾロアスター(ザラスシュトラ、ツァラトゥストラ)……BC12~BC9世紀の人物(研究者によって生没年が異なる)。ペルシア人が中央アジかイラン北部に留まっていたころ。古代ペルシア人の多神教信仰から独自の世界観を作り上げた。
 世界を善と悪の二つの原理の闘争の場と見た。
 善……光の神創造主アフラ・マズダー。ゾロアスター以前からペルシア人に信仰されていた。宇宙、人間、生命、秩序、正義、など。
 悪……大悪魔。暗黒の神アンラ・マンユ(アーリマン)。死、闇、邪悪、破壊、など。
 アフラ・マズラーは、天、水、大地、植物、人間、火などからなる世界を創造した。ここに悪魔が侵入し、世界を破壊した。こうして善悪の戦いが始まった。しかし、最後に救世主サオシュヤントが現れ、悪は滅ぼされる。
 人は、死後ハラ山の頂にかかる「チンワト橋」を通り、善人は天国へ行ける。悪人は、橋から落とされ地獄に行く。
 天国・地獄観は、ユダヤ教に影響を与え、キリスト教、イスラム教にも引き継がれる。
 
●マヤ諸語(p106)
 マヤ人の抵抗は、ヨーロッパによる植民地化後も続く。1697年マヤ最後の都市タヤサルが陥落したが、18・19世紀にもマヤ人の蜂起があった。メキシコ政府の統治を受け入れたのは20世紀後半。
 現在でも30のマヤ諸語が話されている。
 
●オアシスの道、草原の道(p125)
 中央アジには、北緯40度ラインの「オアシスの道」(シルクロード)と、北緯50度および支線の延びる60度ライン「草原の道」がある。各所で南北に連結。陸上の道。
 草原の道……東は現中国の北域・興安嶺から、西はハンガリー平原付近まで。
 
●ソグド人(p128)
 陸上の道の交易商人。ラクダを使ったキャラバン商人のイメージで捉えられているが、本来は騎馬遊牧民。サマルカンドを中心に、4~9世紀の陸上ユーラシア交易の担い手となった。中国とヨーロッパを結ぶ。
 安史の乱(755-763)の安禄山と史思明はソグド人。
 
●鮮卑卓抜部(p135)
 五胡(匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)は、騎馬遊牧民族国家である。匈奴系騎馬遊牧民。
 五胡十六国時代(304-439年)は、鮮卑の一部である鮮卑卓抜部の北魏によって統一された。
 隋(581-618)、唐(618-907)も、鮮卑卓抜部出身の王朝。
 
●17世紀半ば(p161)
 17世紀半ばは、東ユーラシア系騎馬遊牧民国家が並び立っていた。すべて内陸国家。
 中国の清朝、インドのムガル朝、イランのサファヴィー朝、トルコのオスマン朝。
 ここに、海洋国家であるオランダとイギリスの東インド会社の入る隙ができた。17世紀後半から18世紀の時代に、伝統的インド洋交易構造が解体し、オランダとイギリスによる海上支配に切り替わった。18世紀末には、インド洋は完全にヨーロッパの海になった。しかし、ヨーロッパによるインド洋支配は、アメリカ大陸とは異なり、簡単に進んだわけではない。
 
●原初的宗教(p171)
 原初的宗教……シャーマニズム(降神術・降霊術)、アニミズム(万物に精霊・霊魂が宿るという信仰)、トーテミズム(ある氏族を特定の動植物に関係づける信仰)、自然の神々崇拝、祖先崇拝、など。
 高等宗教……死生観を体系的・論理的に説いている宗教。
 
●中国仏教(p214)
 中国仏教は、儒教の祖先崇拝と道教の祈祷を取り入れ、インド仏教とは違う代物となった。それが日本に伝わった。
 位牌……神主(しんしゅ)を祀る儒教の祖先崇拝(招魂再生儀式)を取り込んだ。
 盂蘭盆……盂蘭盆経という偽経。釈迦の弟子の目連(もくれん)という人物の母親が輪廻転生して「餓鬼」の世界で苦しむのを見た目連が、釈迦に問うたところ、今度の7月15日の高層の集いでご馳走を盂蘭盆(おそらく容器を指す)に載せ、供養すれば救われると言われ、そのようにしたら母親は救われた。ここから先祖を供養する「盂蘭盆」という仏教行事が行われるようになった。
 線香……寺院で線香を焚くのは、もともと魂を魄に取りつかせるための儒教儀式だった。葬儀も儒教から取り入れたもの。
 戒名……儒教の神主の文句に由来。
 墓……墓も墓参りも本来の仏教には不要。儒教の習慣。
 
●砲術師(p257)
 ヨーロッパでは、最初、大砲や火薬の製造法、砲弾の装填法などは、砲術ギルドによって堅く秘密とされていた。ギルドの成員である砲術師が雇われて戦場に駆り出されていた。砲術師は、民間の手工業者であり、特定の君主に属しているものではなかった。
 16世紀以降、砲術師に対する各君主からの需要は多く、火器市場は大きかった。
 砲兵隊が国家の正規軍となったのは、フランス革命後19世紀。
 
●近現代文明(p269)
〔 テクノロジーと資本主義がインターロックした近現代文明は、最後の文明なのだろうか? 地球の寿命はまだ続くであろう。「テクノロジー=資本主義インターロック文明」に終わりはあるのだろうか? どこに行くつくのだろうか? 私は、テクノロジーと資本主義が悪いといっているわけではない。際限なく続くレースに恐怖を覚えているだけである。この文明に終わりはないように思える。際限なくどこまでも続くような気がする。〕
 
(2017/8/13)KG
 
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世界神話入門
 [歴史・地理・民俗]

世界神話入門
 
篠田知和基/著
出版社名:勉誠出版
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-585-22165-4
税込価格:2,592円
頁数・縦:273p・19cm
 
 
【目次】
1 世界神話
 世界神話へむけて
 地域的諸問題
 共通神話の形成
2 世界の構造
 卵と鳥
 樹木
 大地
3 女神と至高神
 女神
 愛の神話
 復活神とトリックスター
 裁きの神と太陽の旅
4 悪の原理
 罪と罰
 動物変身と獣祖
 鍛冶神と狼男
 
【著者】
篠田 知和基 (シノダ チワキ)
 名古屋大学教授をへてHSU特任教授。甲南大学人間科学研究所客員研究員。比較神話学研究組織主宰。専門は仏文学、神話学、文化造形論。
 
【抜書】
●イギリス、トルコ、サウジアラビア(p49)
 神話のない国……イギリス、トルコ、サウジアラビア
 トルコとサウジアラビアは、イスラム化の過程で、全イスラム時代の伝承は否定され、抹殺された。
 イギリスは、ウェールズやアイルランドにはケルト神話が存在した。しかし、「イギリス文化圏」の政治的中心であるイングランドは、ローマの支配を直接受けており、ローマ文化、ローマ神話を継承した。
 
●五大古典神話(p56)
 エジプト、ギリシャ、メソポタミア、インド、中国
 
(2017/8/6)KG
 
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マタギ聞き書き その狩猟民俗と怪異譚
 [歴史・地理・民俗]

マタギ聞き書き: その狩猟民俗と怪異譚
 
武藤鉄城/著
出版社名:河出書房新社
出版年月:2017年4月
ISBNコード:978-4-309-22699-6
税込価格:1,944円
頁数・縦:221p・20cm
 
 
 著者の死から13年後、1969年に慶友社より刊行された『秋田マタギ聞書』(常民文化選書4)の再刊。資料編の大方と索引を割愛してある。
 40人ほどのマタギから聞いた話を採録している。聞いた話をそのまま収録しているようであり、随所にマタギ言葉に重複があったり、同じテーマで異なる伝説を紹介していたりして、整理された内容ではないが、現役のマタギの姿を伝える貴重な資料である。
 
【目次】
秋田県 仙北郡
 鈴木政治郎さん―上桧木内村戸沢 旧二月九日、四ツ前には山を鳴らすな
 門脇寛一郎翁―上桧木内村戸沢 鹿の獅子舞
 門脇竜治郎さん―上桧木内村戸沢 ササラの笠納め
  ほか
秋田県 由利郡・北秋田郡
 小野勘太郎翁―由利郡直根村百宅 スノ祝い
 佐藤正夫氏―北秋田郡大阿仁村根子 売薬行商
 佐藤永太郎翁―北秋田郡大阿仁村根子 南無アブランケン、ソワカ
  ほか
又鬼資料
 菅江真澄翁著書から
 伊藤為憲著書から
 マタギの語源
 
【著者】
武藤 鉄城 (ムトウ テツジョウ)
 1896年、秋田市生まれ。民俗学者、考古学者、郷土史家。慶應義塾大学中退。角館尋常高等小学校代用教員、東北帝国大学奥羽資料調査部嘱託、朝日新聞地方通信員、角館時報主筆などを歴任するかたわら、角館を中心とする民俗調査を進めた。1956年逝去。秋田魁文化章、秋田県体育功労章受章。
 
【抜書】
●マタギの語源(p216)
 著者の考察。
 インドの屠殺業者として卑しめられた賤民マータンガ(男)/マータンギ(女)の名称から出ているのではないか?
 水を乞うた釈迦の弟子の阿難に、自分はマータンギであると卑下したプラクリチの話から考え付いた。
 釈迦も、自分がそのマータンガ/マータンギの属するチェーンドラの種であると言った。日本でも、日蓮が自らを穢民と称した。
 日本語でとなえる呪文の最後に、「アビラウンケン(阿毘羅吽欠)」(胎蔵界大日如来真言にある)「ソワカ(蘇波河)」(その効力を呼ぶ)を唱える。
 《他の語源説》
  (1)獣を殺して食うから、鬼の次に恐ろしい又鬼(またぎ)。
  (2)山の峰を跨いで行くからマタギ。(仙北郡雲沢村)
  (3)木の股から生まれたから。(仙北郡中川村)
 
(2017/7/11)KG
 
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日本と世界がわかる最強の日本史
 [歴史・地理・民俗]

日本と世界がわかる 最強の日本史 (扶桑社新書)
 
八幡和郎/著
出版社名:育鵬社(扶桑社新書 236)
出版年月:2017年3月
ISBNコード:978-4-594-07626-9
税込価格:950円
頁数・縦:326p・18cm
 
 
 著者による日本史解釈の書。独自の視点で書かれていて興味深い。同意できる部分と、疑問に感じる部分とあるが。
 
【目次】
第1章 日本人・日本語・日本神話
第2章 邪馬台国・大和朝廷・神功皇太后
第3章 仏教伝来・聖徳太子・大化の改新
第4章 荘園制・摂関制・武士の登場
第5章 幕府・元寇・禅宗文化
第6章 天下統一・南蛮船・朱子学
第7章 黒船来航・明治維新・大東亜共栄圏
第8章 占領・高度成長・バブル崩壊
 
【著者】
八幡 和郎 (ヤワタ カズオ)
 1951年滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学大学院教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。
 
【抜書】
●脱解尼師今(p27)
 新羅の建国伝説には、1世紀に活躍した第4代新羅王の脱解尼師今(だっかいにしきん)がタバナ国出身と書いてある(『三国史記』)。タバナ国=但馬か丹波?
 逆に、皇室が新羅から来たという伝承は、日本にも半島にもない。
 新羅が国らしくなるのは3世紀以降。日本の神々の時代には未開地だった。
 
●神武東征(p30)
 神武東征は、中世に生まれた伝説。
 皇国史観の時代の教科書には、神武天皇が大軍勢を率いて日向国の美々津から船出して大和を征服し、日本を建国したと書いてある。しかし、「記紀」にはそんな記述はない。
 『日本書紀』や『古事記』は、大和を統一し、吉備や出雲まで勢力圏に入れた崇神天皇を実質的な大和朝廷の創始者としている。その先祖の磐余彦(神武天皇)は、日向出身で、少人数で故郷を出奔し、吉備など各地を経て現在の橿原市と御所市あたりに小さな領地を得たらしい、と書かれているだけ。
 
●日本国家の成立(p42)
 日本国家の誕生は、3世紀。崇神天皇による大和の統一と吉備・出雲の征服。
 仲哀天皇と神功皇后によって筑紫地方が大和朝廷の支配下に入り、日本統一が達成された。
 
●大友皇子(p59)
 日本人の作として知られる最古の漢詩は、大友皇子(弘文天皇)のもの。『懐風藻』に収められている。
 
●平清盛(p112)
 11世紀中ごろ、日宋貿易において大宰府の裁量が広がり、博多に定住した華僑の力も大きくなった。
 神崎庄の支配人や太宰大弐として 、日宋貿易による莫大な富を握ったのが平忠盛・清盛。平家の天下は、日宋貿易で得た富の賜だった。
 さらに大輪田泊(おおわだとまり:神戸)を整備し、福原を都とすると、南宋の首都である臨安(杭州)と直接に向かい合うことになるはずだった。
 
●江戸時代のエコロジー(p199)
 江戸時代にリサイクルが盛んだったのは、単にモノ不足だったため。薪や柴を大量に使わなければならず、山ははげ山だらけで、洪水が頻発した。
 インフラの整った江戸に住めるということが特権。その住民の生活水準や自由度が高いというのは、現代の平壌そっくり。体制の安定のために、首都の住民を特権階級化するのは賢いやり方。
 
●東京の誕生日(p235)
 東京は、誕生日のない首都。東京遷都はなし崩し的になされた。正式に京都から東京へ遷都するということを宣言しなかった。
 1868年1月、大久保利通「大坂遷都建白書」。車駕親征ということで天皇が大坂に約40日間滞在、陸海軍の閲兵、英国公使パークスの引見。
 東西二都論が有力に。7月17日に「車駕東遷」の詔書。10月13日、江戸城に入城、東京城と改称。
 戊辰戦争が終わっていたので、いったん、京都に戻る。
 1869年3月28日、再び東京入城、太政官を置く。
 その後、京都をどうするかということになり、モスクワで戴冠式を行うロシアの例に倣い、京都で即位礼を行うことで決着。しかし、大正と昭和の即位礼は京都で行われたが、平成では反故にされた。
 
●植民地(p275)
〔 朝鮮や台湾は「植民地」だったのかについては、国際法上の用語ではないのでなんとでもいえますが、イギリスのインド統治のような意味での植民地ではありません。イギリスのアイルランド領有とかロシアのポーランド領有にちかいものです。
 朝鮮統治は、もともとの目的が経済面ではなく国防上の要請に基づいたものだったので、一方的に収奪したようなことはありません。〕
 
(2017/7/7)KG
 
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信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 [歴史・地理・民俗]

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍
 
ロックリー・トーマス/著 不二淑子/訳
出版社名:太田出版
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-7783-1556-6
税込価格:1,944円
頁数・縦:263, 16p・19cm
 
 
 イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に帯同し、信長に贈られた「黒人侍」弥助の数奇な人生を、限られた数少ない資料を基に推理する。
  
【目次】
第1章 日本上陸と信長との謁見
第2章 弥助の経歴を紐解く
第3章 現代に伝わる弥助伝説
第4章 弥助が生きた時代
第5章 弥助はどこから来たのか
第6章 信長の死後の弥助
第7章 弥助の生涯を推測する
付録 第一章「日本上陸と信長との謁見」に関する補足史料
 
【著者】
ロックリー,トーマス (Lockley, Thomas)
 日本大学法学部専任講師。研究分野は言語学習。担当教科は歴史で、特に国際的視野に立った日本史を扱う。イギリス出身、日本在住。
 
不二 淑子 (フジ ヨシコ)
 翻訳家。早稲田大学第一文学部卒。
 
【抜書】
●非ヨーロッパ世界(p99)
〔 しかし、たてつづけに出版が続いたあとは、黒人侍の逸話は三百年間忘れ去られてしまったようである。二十世紀前半に日本が強国となり、その国際的影響力が非白人国の中で突出したとき、日本国内で非ヨーロッパ世界と再びつながろうとする動きが起こり、白人帝国主義の犠牲者である黒人に対しても親しみを持つようになった。第一次世界大戦前に〈脱亜入欧〉というスローガンを掲げていた時期の反動とも言える流れだった。第二次世界大戦直前の日本は、当時の西欧社会がけっして日本人を同等とは見なさないことを認識し、考えを改めたのだった。この新しい波が起こった結果、弥助の逸話のように半分忘れ去られていた話の多くにスポットが当てられ、非ヨーロッパ世界との国際協調を促すために利用された。
 ここで忘れてはならないのは、日本が第二次世界大戦に参戦した大義名分は――最終的にどういう結果になったにせよ、また戦後に歴史がどう捉えたにせよ――、ヨーロッパ列強の植民地支配からの脱却だったという点だ。二十世紀初頭には世界中の何百万もの人々がこのメッセージを信じ、日本の方策を支持するにせよしないにせよ、そこから何かを感じ取っていた。その中には、ガンジー、中国最後の皇帝溥儀、孫文、スカルノ、アウンサン[ビルマの独立運動家。アウン・サン・スーチー氏の父親]といった著名人や、それほどではないアジアやアフリカの独立運動の指導者たちもいた。今日ではほとんど忘れられているが、日本軍には日本国内の日本人だけでなく、台湾と朝鮮の植民地部隊や中国と満州の志願兵、遠く離れたインドの反植民地主義者の同盟軍も含まれていた。また、二十世紀初頭には、欧米列強による統治と支配を終わらせてアジア人のためのアジアを築くという汎アジアの夢の名のもとに、中国やフィリピンで起こった独立運動に参加して死ぬまで戦った日本人志願兵もいた。〕
 
●カスティーリャ王国(p156)
 15世紀のイベリア半島は、カスティーリャ王国がポルトガルを除く全地域を支配していた。
 ポルトガルは、かろうじて独利した王国を維持していたが、中世の封建制度から中央集権的な君主制へ移行しつつある貧しい発展途上国に過ぎなかった。キリスト教国とは友好関係を保ち、北アフリカのイスラム教国とは聖戦を行っていた。そのため、ポルトガル船は、母国から遠く離れた港に向かうようになった。交易によって経済を発展させるため、海洋船を建造、アフリカ沿岸を目指す。喜望峰を通過し、インド洋まで到達、東洋の香辛料や富への道を開いた。ただし、この事実は国家機密。他のヨーロッパ諸国がモロッコ以南のアフリカ西海岸に何があるのかを知るのは、15世紀終盤、スペイン国王の支援を受けた探検隊が遠征に乗り出すようになってから。」
 
●アレッサンドロ・デ・メディチ(p173)
 ルネッサンス期のイタリアには、自由民のアフリカ人もいた。奴隷が市民権を得て自由民となることもあった。アフリカ人自由民によるコミュニティもあった。
 バチカンには、主要なアフリカ諸国の大使館があり、アフリカ人大使が駐在した。
 アレッサンドロ・デ・メディチは、「ムーア人」というあだ名で呼ばれ、アフリカ人奴隷の女性の子供と言われていた(真偽不明)。1530~1537年、フィレンツェ公を務めた。
 
●アビシニア(p184)
 16世紀ごろのエチオピアは、複数の部族が競合していたが、最古の部族の名を取って一般にアビシニアと呼ばれていた。
 南インドでは、5世紀以降、アビシニアの硬貨が頻繁に発見されており、当時からアビシニア人が商人や船乗りとしてインドを訪れていた。
 キリスト教国のアビシニアは、周囲のイスラム国やアニミズム信仰国に囲まれ、紛争が絶えなかった。サハラ以南のアフリカでもっとも国家としての体裁を整えた国だったが、安定を欠いていた。
 
●ディンカ族(p187)
 南スーダンには、世界で一番平均身長が高い部族、ディンカ族が住んでいる。牛飼いであり、勇猛な戦士。エチオピア人、エリトリア人、ソマリ人よりも黒い肌をしている。
 
(2017/6/25)KG
 
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ジャポニスムと近代の日本
 [歴史・地理・民俗]

ジャポニスムと近代の日本
 
東田雅博/著
出版社名:山川出版社
出版年月:2017年2月
ISBNコード:978-4-634-59088-5
税込価格:1,620円
頁数・縦:127p・21cm
 
 
 幕末から明治維新にかけて、ヨーロッパで起こったジャポニスムに関して考察する。
 主な視点は万国博覧会と文学作品に現れたジャポニスム。そして、シノワズリーとの関連に関しても言及。
 
【目次】
Ⅰ部 ジャポニスム
 1章 ジャポニスムとは何か
 2章 ジャポニスムはなぜ起こったのか
 3章 ジャポニスムは何をもたらしたのか
 4章 新しい研究
Ⅱ部 ジャポニスムで近代日本の歴史を読む―「歴史総合」試案
 5章 ジャポニスムは近代史のなかにどう位置づけられてきたのか
 6章 ジャポニスムを近代史のなかにどう位置づけるのか
 
【著者】
東田 雅博 (トウダ マサヒロ)
 1948年、大阪市生まれ。1981年、広島大学大学院文学研究科博士課程修了、西洋史学専攻。博士(文学)。富山大学人文学部教授、金沢大学文学部教授などを経て、金沢大学名誉教授。
 
【抜書】
●ジャポニスム、ジャポネズリー(p6)
 ジャポネズリー……「異国の珍しいものへの関心を強調するニュアンスが強い」。(高階秀彌「ジャポニスムとは何か」『ジャポニスム入門』ジャポニスム学会編、思文閣出版、2000年)
 ジャポニスム……「むろんそこにエキゾティスムの要素が大きな部分を占めているとしても、それのみにとどまらず、そこに見られる造形原理、新しい素材や技法、その背後にある美学または美意識、さらには生活様式や世界観を含む広い範囲にわたる日本への関心、および日本からの影響が問題とされる」。(同上)
〔 かなり乱暴にまとめてみれば、ジャポネズリーは異国趣味であり、それを超えて初めてジャポニスムである、ということになるだろう。〕
 
●1862年、ロンドン万博(p21)
 「西洋における日本の芸術の発見」は、1862年のロンドン万博に始まる。ポール・グリーンハルが指摘。
 1851年、ロンドンのハイドパークで開催された最初の万博「大博覧会」においても日本の製品は展示されていた。ただし、中国の展示品に日本の製品が紛れ込んでいただけ。
 1862年の万博では、日本の展示は来訪者に衝撃を与えた。しかし、この万博を見物した竹内遣欧使節団(福沢諭吉を含む)には不評だった。展示品の中に提灯、傘、木枕、蓑笠、草履のようなものまで並んでいたことが、使節団一行には残念に、あるいは屈辱的に思われたようである。
 日本が正式に参加したわけではない。日本の展示は、在日イギリス公使サー・ラザフォード・オールコック(『大君の都』の著者。1863年発行)が中心になって行った。オールコックは、日本の文明を高く評価していた。
 
●1867年、パリ万博(p25)
 1867年のパリ万博に、日本は初めて正式に参加。徳川昭武(慶喜の弟)が派遣された。幕府末期のこの時期、そんな余裕はなかったが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュの強い要請に応える。
 薩摩藩と佐賀藩も独自に万博に参加。
 展示品は、武器、楽器、家具、和紙、書籍、衣服、陶磁器、漆器、銅器、ガラス器、根付け、『北斎漫画』や歌川国貞などの浮世絵、そして10点ほどの油絵など。3人の柳橋芸者が茶でもてなす日本風茶店もあった。
 『ロンドン画報』(1867年10月19日号)の「パリ万国博覧会 日本」という記事にて、和紙を激賞。
 「日本人の作る優良な紙は――九十種類もあるが――この紙の時代においてですら、ヨーロッパ人にはまだ知られていないようなさまざま目的に利用されている。彼らは、われわれがするように部屋に壁紙を張るだけでなく、紙の衣装や、紙のハンカチーフや、傘も持っている。……さまざまな色の日本の紙のとてもすばらしいコレクションが博覧会に出品されていて、われわれにはまだ、それほど完全に知られていないこの国から来るすべてのものと同様に、大きな興味をそそるのである。」
 
●エミール・ゾラ(p52)
 エミール・ゾラ『愛の一ページ』(1878年)。美しく貞淑な若き未亡人と、隣に住む富裕な医師との不倫の物語。この医師の庭園が、妻の日本趣味に彩られている。「日本風のあずまや」が設けられている。
 「壁と天井には金色のブロケード織りの布が張りめぐらされ、飛び立っていく鶴の群れや、極彩色の蝶と花、それに黄色い河に青い小舟が漂っている風景などが描かれていた。目の細かい茣蓙の敷かれた床には、黒檀でできた椅子と花台がいくつも置かれている。漆塗りの家具も数点あって、小ぶりの青銅彫刻、小さな東洋の陶磁器、それに、けばけばしい原色で塗りたくられた奇妙な玩具など、夥しい数の置物が所狭しと並べられていた。奥にはザクセン焼きの大きな東洋風の人形が置かれていたが、膝を折り曲げて座っている、このむき出しの布袋腹の持ち主は、ちょっと押されただけでも、見るからに楽しげな様子で、狂ったように頭を揺り動かすのだった。」(石井啓子訳、藤原書店、2003年、p.73)
 ゾラは、マネなど、印象派の画家たちと深く関わっていた。彼らから、ジャポニスムの影響を受けた?
 
●ギ・ド・モーパッサン(p56)
 ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(1885年)。元下士官のジョルジュ・デュロワが、男前を武器に中上流階級の女性をたらし込んで出世する物語。
 「彼は、……いよいよ女がくるとなると、できるだけうまく部屋のみすぼらしさを隠さなければならないが、それはどうしたらよかろうかと考えた。そして、日本製のこまごました品物を壁にピンでとめようと思いつき、五フラン奮発して、ちりめん紙や小さな扇や屏風を買い、それで壁紙の目立ちすぎるしみを隠した。窓のガラスには、川に浮かぶ船や夕焼け空を飛ぶ鳥やバルコニーによりかかる極彩色の貴婦人や雪の野原をいく黒い小さな人形の行列などをあらわした、透明な写し絵をはった。
 狭くて、寝るところと腰をおろすところしかない彼の住居は、やがて絵を描いた提灯の内側のようになった。」(田辺貞之助訳、新潮文庫、1976年、p.117)
 
●日本人の軽業興行(p67)
 松井源水一座による軽業見世物が、1868年2月2日より5月4日まで、ロンドンで行われた。ジョン・ラスキン『時と潮』所収の「第六の手紙 近代娯楽の堕落(日本の曲芸師)」(1867年2月28日付け)に、以下のように記述されている。
 「日本の曲芸師の一団が興行するためにロンドンに来ていることは聞いているだろう。かなり前から日本の美術への関心が高い。このことはわが国の画家たちにきわめて有害であった。わたしは日本人がどんな人々であるのか、彼らが何を成し遂げたのかを知りたかった。」
 「演技全体を見た印象は、劣等な人種と呼べる人間が存在しているのだというものであった。とはいえ、あらゆる点においてではない。人間の優しさ、家庭的な愛情、器用さなどが認められないわけではない。しかしながら彼らは国民としては悪魔的精神に捕らえられ、それによって何年もの忍耐を経て下等動物の性質とある程度類似するように自らを造り替えるよう追い込まれたのだ。」
 軽業興業は、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカ、オーストラリアなどでも行われた。
 
●日本人村(p68)
 1885年1月10日から、ロンドンのナイツブリッジで日本人村の興行が始まる。
 「日本の意匠や様式で建てられた店舗、住居、茶店、および寺院だけではなく、日本の土着の工芸家や職人および彼らの家族をまとめてこの国に運び込み、ロンドンの中心部にできた小さな植民地に移植するという、今までにない思い付きが周到かつ上品に実行に移された。」(『タイムズ』紙)
 舞台が設えられ、軽業、足芸、綱渡り、相撲、チョンナキ踊りなども演じられた。
 入場料は1シリング。開幕4か月で25万人が来場した。
 しかし、日本人村は火災で焼失、再建されたが客足は今一つであった。
 日本人村は、ギルバートとサリバンのオペラ『ミカド』にも強い影響を与えた。初日のプログラムに、「上演にあたって、ナイツブリッジの日本人村の責任者および住民の貴重なご助力を受けたことに深く感謝する」との謝辞が見える。
 マイク・リー監督の映画『トプシー・ターヴィー』(1999年)には、日本人村の女性が『ミカド』の出演者たちに演技指導しているところが描かれている。
 
●プルースト(p71)
 プルーストは、盆栽にほれ込むほど日本びいきだった。
 『失われた時を求めて』には、さまざまな日本のモノが次々と登場する。
 ・水中花遊び(鈴木道彦訳、集英社、2001年、1巻、pp.92-93)
 ・「日本趣味の七宝模様」(同1巻、p.299)
 ・「日本の墨絵のような影」(同1巻、p.391)
 ・「日本の屏風に描かれているような」(同5巻、p.178)
 ・「銀色の地に日本画の手法で描かれたノルマンディのリンゴの木」(同12巻、p.13)
 
(2017/6/24)KG
 
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いまの世界をつくった世界史の大事件30
 [歴史・地理・民俗]

いまの世界をつくった世界史の大事件30
 
関眞興/著
出版社名:宝島社
出版年月:2016年9月
ISBNコード:978-4-8002-5809-0
税込価格:1,080円
頁数・縦:319p・19cm
 
 
 重大事件を中心に近現代の世界史を通観する。
 
【目次】
第1章 18~19世紀
 イギリス政界まで巻き込んだ異常な投機熱―南海泡沫会社事件《1720年、イギリス》
 独立革命につながるアメリカの権利意識―ボストン=ティー=パーティー事件《1773年、アメリカ13州》
 フランス革命のきっかけになった市民たちの暴動―バスティーユ襲撃事件《1789年、フランス》
 産業革命によって生まれた賃金労働者の不満を表明した―ラッダイト運動(事件)《1811年、イギリス》
 戦争の発端となったビスマルクの電報改竄―エムス電報事件《1870年、プロシア》
 反ユダヤ感情を増幅させた仏近現代史上最大の冤罪事件―ドレフュス事件《1894年、フランス》
 朝鮮進出を図る日本が打った残虐な一手―閔妃暗殺事件《1895年、李氏朝鮮》
 「扶清滅洋」を掲げ、外国勢力の排除を目指した―義和団事件《1900年、中国》
  
第2章 20世紀前半
 民衆の素朴な崇敬を粉砕したツァーリの銃弾―血の日曜日事件《1905年、ロシア帝国》
 どの国も望んでいなかった第一次世界大戦の引き金―サライェヴォ事件《1914年、オーストリア=ハンガリー帝国》
 オスマン帝国の崩壊に続く近代化への途中で起こった―タラート=パシャ暗殺事件《1921年、オスマン帝国》
 民主主義の象徴が焼け落ち、ナチス独裁のきっかけに―国会議事堂放火事件《1933年、ドイツ》
 永久革命論とスターリンの一国社会主義との対決―トロツキーの暗殺《1940年、ソ連》
 インド現代史における「非暴力主義」のゆくえ―ガンディー暗殺事件《1948年、インド》
 「約束の地」を求めたユダヤによるアラブへの攻撃―デイル=ヤシーン村虐殺事件《1948年、イスラエル》
 戦後のアメリカで突如吹き荒れた「赤狩り」の嵐―ローゼンバーグ事件《1950年、アメリカ》
 
第3章 20世紀後半
 南アフリカの「アパルトヘイト」に対する不満が爆発―シャープビル虐殺事件《1960年、南アフリカ》
 アメリカがカストロ政権の転覆を狙ってキューバに侵攻―ピッグス湾事件《1961年、キューバ》
 インドネシアで突如起こったクーデターと共産党弾圧―9・30クーデター《1965年、インドネシア》
 ド=ゴールの時代に起きた新しい世代の叛乱―フランス五月革命《1968年、フランス》
 中国とソ連が国境となる川中の島を巡って武力衝突―ダマンスキー島衝突事件《1969年、ソ連》
 イラン革命後に元国王の引き渡しを求めた民衆―アメリカ大使館占拠事件《1979年、イラン》
 南米エル=サルバドルで人権尊重を求めたカトリック福者―ロメロ神父狙撃事件《1980年、エル=サルバドル》
 「筋金入りの抵抗者」の教皇が率いるヴァチカン市国―ヨハネ=パウロ2世暗殺未遂事件《1981年、ヴァチカン市国》
 自由化を求めた学生デモに対する無差別発砲―天安門事件《1989年、中国》
 保守派によるクーデター未遂はやがてソ連崩壊へと導く―ゴルバチョフ軟禁事件《1991年、ソ連》
 第二次世界大戦後、ヨーロッパで最大のジェノサイド―スレブレニツァ虐殺事件《1995年、ボスニア=ヘルツェゴビナ》
 
第4章 21世紀
 アメリカと中東世界が起こした「文明の衝突」の悲劇―9・11同時多発テロ《2001年、アメリカ》
 「世界最悪」の悲劇・コンゴ紛争とアフリカ大戦―ローラン・カビラ暗殺事件《2001年、コンゴ民主共和国》
 ウクライナを脅かす21世紀ロシアのナショナリズム―クリミア半島併合事件《2014年、ウクライナ》
 
【著者】
関 眞興 (セキ シンコウ)
 1944年、三重県生まれ。東京大学文学部卒業後、駿台予備校世界史講師を経て、著述家。
 
【抜書】
●バスティーユ監獄(p34)
〔 この後、フランスは革命の長い混乱に入っていく。発端となったバスティーユ監獄は、フランス絶対主義の象徴のように言われるが、この時、政治犯の収容者は一人もおらず、文書偽造犯4人、精神病患者が2人、素行不良の貴族1人の計7人であった。しばしば話題になるマルキ=ド=サドは10日ほど前に他の施設(修道院)に移されていた。
 ということで、じつはバスティーユ監獄に、直接的には「絶対主義の象徴」としての意味はなかった。しかしこの事件が「フランス革命史」で強調されるのは、それまで特権階級の間でおこなわれていた「革命」に市民が直接介入したことと、この事件が瞬く間に全国に伝えられたことにより、全国的な革命状況を生み出す契機になったことにある。〕
 つまり、市民たちは武器と弾薬を奪いに行ったのである。
 
●アルメニア(p116)
 カスピ海と黒海の間をさすコーカサス地方にある3国の一つ。他は、ジョージアとアゼルバイジャン。
 アルメニア人は、インド=ヨーロッパ系の言語を話す民族。キリスト教。初めてキリスト教を国教化した民族としても知られる(301年)。祖国アルメニアは300万人あまりの人口だが、ヨーロッパに50万人、アメリカに80万人余りがいるという。
 商才にたけ、「コーカサスのユダヤ人」と呼ばれることもある。
 
●アラブ人(p153)
 アラブ……アラビア語を話すイスラム教徒。アラビア語は、もともとアラビア半島の住民の言葉だった。イスラム教徒は「アラビア語でコーランを読まなければならない」というイスラム教の基本原理がある。
 
●アフリカの年(p181)
 17の独立国が誕生した1960年を、国連は「アフリカの年」と評した。
 
●5月35日(p260)
 1989年、天安門事件。6月4日未明、李鵬の指示によって人民解放軍が鎮圧活動を開始した。天安門広場に集まっていた学生・市民たちに対し、無差別に発砲、多くの死傷者が出た。政府発表は319人。数万の死傷者が出たとの意見もある。
 インターネットでは、「6月4日」という言葉を含むものはすべて遮断されるため、「5月35日」などの隠語を生んでいる。
 
●イスラム教(p289)
 〔イスラム教は純粋な宗教であり、政治的な宗教でもある。〕
 教義は、「六信五行」と単純。
 イスラム教には聖職者がいない。ただし、それに対応する法学者がいて、宗教上・生活上の問題は『コーラン』に戻って解説してくれる。世俗的な法体系を作り上げるのではなく、法体系の原点が『コーラン』。〔日常生活そのものが宗教生活であり、宗教がそのまま日常である。〕
 
(2017/6/18)KG
 
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