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刀の明治維新 「帯刀」は武士の特権か?
 [歴史・地理・民俗]

刀の明治維新: 「帯刀」は武士の特権か? (歴史文化ライブラリー)
 
尾脇秀和/著
出版社名:吉川弘文館(歴史文化ライブラリー 472)
出版年月:2018年8月
ISBNコード:978-4-642-05872-8
税込価格:1,944円
頁数・縦:271p・19cm
 
 
 「武士の魂」と称されてきた、帯刀の真の歴史を語る。
 江戸時代初期には、庶民も打刀を差していたし、それを禁止された後も、脇差は認められていたという。しかし、秀吉の刀狩りで、平民は刀を取り上げられたのではなかったかのか? その刀、どこから出てきたのか?? そのへんの記述がなく、疑問が残る。
 また、庶民まで刀を持っていたとなると、その生産量、そして鉄の消費量は、相当なものだったのだろう。物質的にけっこう豊かな時代だったのか、江戸時代?
 
【目次】
帯刀とはなにか―プロローグ
帯刀の誕生と変質―武器・ファッション・身分標識
身分標識としての帯刀―「帯刀人」の登場
虚栄と由緒と混乱と―ひろがる「帯刀」のゆくえ
明治初年の帯刀再編―消えゆく身分標識
身分標識から旧弊・凶器へ―貶められた最期
刀を差せない日―エピローグ
 
【著者】
尾脇 秀和 (オワキ ヒデカズ)
 1983年、京都府に生まれる。2013年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。現在、神戸大学経済経営研究所研究員。
 
【抜書】
●太刀、腰刀(p9)
 平安時代末期、武士は太刀と腰刀を身につけた。
 太刀……刃渡り2尺数寸(約80cm)、鎬造りの彎刀(わんとう)。鞘に、佩用する(腰に提げる・吊り下げる)ための部品が取り付けられていた。刃は下を向く。直垂(ひたたれ、武士の普段着)の時は、腰刀だけを帯び、太刀は自ら手に提げて持つか、従者に持たせた。
 腰刀……刃渡り1尺前後、平造り(反りがない)。後世の合口に近く、鍔は用いない。刃を上に向けて腰に差し込む。もともと脇差とは、腰刀のことを言った。
 中世武士のシンボルは太刀と腰刀ではなく、騎馬・弓矢であった。武士を「弓取り」と言い、武士たる者の道を「弓馬の道」と呼んだ。
 
●打刀(p11)
 鎌倉時代末期以降、合戦の形態が歩兵を中心とした集団戦・白兵戦へと変化していった。
 打物(うちもの、打ち合って戦うための武器)の重要性が増し、打刀(うちがたな)が増加していった。現在の「日本刀」。
 太刀に比べて反りが小さいが、刀身の構造自体は太刀と同じく鎬造りの彎刀。佩くための部品が付属していない。もともと1尺数寸程度で、腰刀の代わりに帯に差すためのものであった。のちに大型化し、「刀」と呼び、太刀の代用として使用するようになる。腰当という革製品を装着して佩くことも行われた。
 
●寛文八年令(p40)
 寛文8年(1668年)3月、江戸幕府は、幕府から扶持を給付されている商人・職人(御扶持之者)も含め、すべての町人に対して、刀を帯びて江戸の町中を歩き回ることを禁じた。ただし、特に許可した者は例外としている。
 しかし、同月20日、「御扶持人之町人」への規制は撤回された。
 御扶持人之町人……呉服所の7人、金銀座の7人、本阿弥(刀剣検定)の7人、狩野(絵師)の9人、大仏師左京(仏師)、木原縫殿助(ぬいのすけ、大工頭)、大久保主水(もんど、御菓子司)、伊勢屋作兵衛(酒用達)、岩井与左衛門(具足師)、丸田喜右衛門(御鞣師)、辻弥兵衛(御畳方)、伊阿弥角之丞(御畳大工)、土屋右衛門(御研師)、台屋五郎右衛門(紺屋頭)、等。
 旅行・火事の時は佩帯は可。また、禁止されたのは刀だけであり、脇差は含まれない。
 
●天和三年令(p43)
 天和3年(1683年)2月17日、「御扶持人」を含めた町人や舞々・猿楽が刀を差すことを禁じる。
 同月20日には、旅行・出火時の刀も「一切無用」の触れを出す。
 
●身分標識(p50)
〔 十七世紀後半、天和三年令によって、町人が刀を帯びない状況が、ここに実現した。それは刀が武器だから、身分標識だから、町人から取り上げたのではない。ファッション化した刀を町人が差すことを止めさせ、本来の職務上、必要な武士だけが、刀を差すようにしたものである。それは風紀・治安政策の一環として、実行されたものであった。そして結果として、刀は江戸という都市部において、武士と町人とを外見で区別するための、身分標識となったのである。〕
 
●銭刀(p62)
 道中差しには、外見は脇差だが、実は刀身がなく、代わりに貨幣を隠せるようになった隠し財布も作られた。これを銭刀(ぜにかたな)などと言う。
 また、脇差の形をした水筒(酒を入れるもの)も現存する。
 
●治者・役人の身分標識(p93)
 享保13年正月、幕府は諸大名の手船の水主のうち、荷を積んだ船の雇い水主などに脇差を差せないように指示した。
 一方、船頭は、たとえ雇いの船頭であっても帯刀させてよいと命じる。「諸事差引」、つまり多くの水主たちを統率する立場であるため。
 刀を帯びることは、人の上に立って、何かを取り締まったりする立場の人間の徴となった。武士の標識ではなく、治者、役人の身分標識となった。
 
●タテワキ(p105)
 帯刀(タチハキ、タテワキ)……朝廷で東宮(皇太子)の護衛を任務として太刀を佩いた「帯刀舎人(たちはきのとねり)」の略称。
 これの転訛した帯刀(たてわき)は、京百官名(ひゃっかんな)と呼ばれる、人名(通称)の一種としても使われた。この場合、帯刀舎人とも一切関係がない、ただの呼名。
 
●帯刀人(p116)
 江戸時代は、「帯刀人(たいとうにん)」の時代である。
 帯刀人……武士はもちろん、その身分標識を「非常」で許可されている百姓・町人や、修験、神職、医師など、帯刀した者たち全般を指す。
 
●後藤縫殿助(p119)
 宝暦6年(1756年)の馬場文耕の随筆『宝丙密秘登津(ほうへいみつがひとつ)』「後藤縫殿介帯刀御免被仰付事(おおせつけらるること)」より。
 幕府呉服所の後藤縫殿助(ぬいのすけ)には、帯刀許可がなかった。しかし、先祖を同じくする金座の後藤庄三郎には、出火時と道中での非常帯刀が許可されていた。
 縫殿助も、「刀御免」になりたいと、願いを出していた。なかなか許可されなかったので、時の御用人、大岡出雲守忠光に出入りする医師の松本英淑に相談、取次ぎを依頼し、多額の賄賂を贈った。その甲斐あって、宝暦6年3月中旬、「道中且御内府におゐても火災之節」での非常帯刀が許可された。
 同月下旬、江戸で火事があった時、火事の場へ悦んで刀を帯びて出てきた。「丸之内にて人々わる口して、此火事ハ縫殿助が刀をさしたがりて火を付けたるべしと、笑ひのゝしりけると也」。
 
●享和元年令(p151)
 享和元年(1801年)7月19日、幕府は、領主が、用達などを勤めている、幕府領や他領の者に名字帯刀を許可してはならない、という触れを出す。自分の領民に対しては構わない。
 
●武器としての刀(p165)
 幕府の役人ですら、非常事態の「打捨」発動許可が下らない限り、安易に刀を抜くことはなかった。捕縛を第一とした。
 盗賊は、捕物道具をもって「召捕」るものだった。町人に対しても、問答無用での殺傷は、認められていなかった。
 武士による無礼打ちもなかった。
 幕末に攘夷打ちなどが横行し、「打捨」発動許可が恒常化した。
 
●切捨御免(p232)
 「切捨御免」という新語は、福沢諭吉『学問のすゝめ』二編(明治6年11月刊)が初出?
 「旧幕府の時代には士民の区別甚だしく、士族は妄(みだり)に権威を振い(中略)或いは切捨御免という法あり」。福沢は、好んで「切捨御免」を使っている。
 しかし、実際には、幕末の非常事態以外、江戸時代を通じてこうした状況はなかった。
 
(2019/4/21)KG
 
〈この本の詳細〉


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