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武士の日本史
 [歴史・地理・民俗]

武士の日本史 (岩波新書)  
高橋昌明/著
出版社名:岩波書店(岩波新書 新赤版 1718)
出版年月:2018年5月
ISBNコード:978-4-00-431718-0
税込価格:950円
頁数・縦:280p・18cm
 
 
 武士の歴史を、武士とは何かを考察しつつ、通時的に論じる。
 
【目次】
序 時代劇の主役たち
第1章 武士とはなんだろうか―発生史的に
第2章 中世の武士と近世の武士
第3章 武器と戦闘
第4章 「武士道」をめぐって―武士の精神史
第5章 近代日本に生まれた「武士」―増殖する虚像
終章 日本は「武国」か
 
【著者】
髙橋 昌明 (タカハシ マサアキ)  
 1945年高知市に生まれる。1969年同志社大学大学院文学研究科修士課程修了。滋賀大学教育学部教授、神戸大学大学院人文学研究科教授を経て、神戸大学名誉教授。博士(文学、大阪大学、2002年)。専攻は日本中世史。
 
【抜書】
●月代(p3)
 月代の風習は、鎌倉時代前後に武士の間で広まった。
 「気の逆上」を防ぐために剃ったというのが有力な説。
 当時は、戦場で鎧をかぶった時にも烏帽子を着けていた。そのため、頭部は暑苦しく、蒸れた。頭に血が上ってのぼせるの防ぐため、額を剃り上げた。
 鉢巻は、兜の下の烏帽子がずれないよう、布でその縁を巻き付けて固定したのが始まり。烏帽子をかぶらなくなっても、汗が流れ落ちるのを止めるため、鉢巻をしめた。
 
●武士帰農論(p9)
 江戸時代、戦争の時代は終わり、経済の発展を軸に人々が豊かさを求めるようになると、収入に限りのある幕府や諸藩の財政が苦しくなる一方、城下町に居住する武士は泰平になずみ奢侈に流れ、士風を忘れ無力化するようになる。
 こうした事態を憂い、江戸前期の熊沢蕃山をはじめ多くの儒者が、武士帰農(土着)論を展開する。
 弱体化した幕藩の軍事力を補強するため、兵と農の分離を解消して武士を農村に土着させ、いったん事が起きた時には農民を率いて戦闘に加わらせる。
 帰農が、武士に統治者としての力量と質実剛健の美風を回復させる有効な措置だとされた。
 
●平安後期~鎌倉時代の身分(p16)
 この時代、三つの異なった系列の身分が存在した。
(1)職業の別……芸能(職業)が家の職能として固定し、身分の一類型が生まれた。
  ①文士・武士
  ②農人・浦人・山人など(第一次産業)
  ③道々の細工(手工業者)。
(2)出生の別……イエの社会的な格付け(家格の高下)。イエの代表者が代々帯びる官職と位階による。
  ①貴族以上:従五位下以上。
  ②侍:六位クラス。中央官庁の三等官クラス。
  ③百姓(凡下):位をもたない一般庶民。
  ④それ以外:イエを持たない者、老いて一人者、孤児、など、身分を持たない者。中世の被差別身分(非人)のもととなった。
(3)帰属……公私の人間支配によって生ずる上下の別。
  ①支配身分:天皇家の家政機関、権門勢家(けんもんせいか:摂関家・幕府・大寺社)、左右近衛府、などの長官。
  ②被支配身分:家人、供御人、寄人、神人、など。
 位階は正一位から少初位下(しょうしょいのげ)まで30階。貴族は、14番目(実質11番目)の従五位下以上。六位以下は、正六位上が貴族に進む直前のステップとして意味がある程度で、10世紀以降になると正六位下以下の15階は消滅。
 侍は、平安中期以降の史料にみえ、貴族と百姓の間に位置する社会の中間層。
 
●さぶらふ(p19)
 侍=さぶらひ。貴人や目上の人のそばでじっと見守り待機することを意味する「さぶらふ」の名詞形。
 侍は、奉仕の面から見れば、帰属身分でもある。
 職業身分の面では、多数の武士と少数の文士からなっていた。
 
●ウジとイエ(p29)
 ウジ……共通の始祖(人または神)を持つという信仰で結ばれた集団(中央豪族の組織)。
 イエ……父から子への継承を原理としている。
 
●六衛府(p36)
 左右近衛府、左右兵衛府、左右衛門府。
 近衛府……内裏(御所・皇居・禁裏・禁中)の内側の囲い(内郭)の内部を警固。
 兵衛府……内裏の外側の囲い(外郭)の内側を警固。
 衛門府……大内裏の内側を警固。大内裏は、内裏を中心に、その周囲に政務や儀式を行う八省院(朝堂院)、諸官庁などを配置した一郭。
 武官とは、衛府と諸国の軍団関係の官人。
 武官以外は武器の携帯を禁止されていた。自由兵仗(ひょうじょう)の禁止。
 
●武士史(p42)
(1)平安前期から11世紀後半まで
 天皇の安全と首都の平和の守り手。武官系武士は、数の面でも社会勢力の面でも限られた存在だった。
(2)白河院政開始から治承・寿永(源平)内乱開始まで
 天皇の安全と首都の平和の守り手。中央の有力武士が、地方社会に出現した武士を従者として組織するようになった。
(3)鎌倉幕府成立以後
 武士勢力の拡大。武士がほぼ在地領主層によって構成されるようになった。ただし、武士の首長が王権の守護者であるという建前は継承されている。
 
●幕府(p70)
 鎌倉・室町の両武家政権が存在していた時代、それを「幕府」と呼んだ例はない。
 江戸時代にも、寛政年間(1789-1801)以前の文書に「幕府」の語が現れるのは珍しい。「幕府」の語が一般化したのは、江戸後・末期の後期水戸学がきっかけ。藤田幽谷らは、徳川政権の正統性を、天皇から任命された「将軍」の政府であることに求め、その体制を再強化するために「幕府」の用語を使った。
 鎌倉幕府の同時代の呼称は「関東」「武家」。
 18世紀以前の江戸幕府を指す用語は「公儀」。この語は豊臣政権が最初。
 古代・中世では、幕府とは近衛府の中国風の呼び名。平安時代から使われていた。転じて近衛大将の執務の場、さらに左右大将その人を指した。
 
●六波羅幕府(p80)
 平清盛の政権も、「幕府」だったのではないか。鎌倉幕府との類似性。
 筆者による学界への問題提議。
 
●居館(p95)
 中世の武士の屋敷地。「居館」もしくは「方形館」。
 一般に、沖積地・扇状地など、水田耕作と関係の深い地点に設けられた。
 一辺1町弱(約109m)の方形、面積8,000㎡程度の規模が多い。
 四周に土塁を築き、その外側に水堀または空堀をめぐらす。
 堀ノ内(土居)には、母屋、厩舎、倉、櫓、鷹屋(たかのや)、持仏堂、墓所のなどが並び、若干の田畠も存在した。
 退避専用の砦は、背後の山地に設けられた。
 
●日本刀(p128)
 鎬造(しのぎづくり)、彎刀(わんとう)形式。
 
●鉄炮(p139)
 天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル人によってもたらされたという説は、『鉄炮記』によるが、伝来後60年後の著作なので、にわかには信じがたい。
 実際は、当時、東アジアの海域に活動した中国人倭寇の役割が大きい。
 鉄炮が日本各地に広まったのは、第12代将軍足利義晴が鉄炮を愛好し、贈答品として大名らに賜与したのと、職業的な砲術師が各地を渡り歩き、運用技術を教授して回ったことから。
 
●天下普請(p145)
 家康は、慶長8年(1603年)に幕府を開くと、江戸城に対して、大阪城などと同じく、天下普請によって近世城郭への大改築を始めた。
 その結果、石垣造りをはじめ城造りの最新ノウハウが全国に広まった。
 
●非戦闘員(p146)
 慶安2年(1649年)、軍学者で旗本の北条氏長が、三代将軍家光の命令で作成した軍役規定の案によると……。
 900石の旗本は、総人数19名を出す。侍5人、甲冑持2人、立弓持1人、鉄炮1人、鑓持2人、草履取1人、馬口取2人、沓箱持1人、鋏箱持2人、小荷駄2人。
 つまり、戦闘に直接参加するのは、総人数の内の三分の一程度。
 
●北条氏長(p174)
 北条氏康のひ孫、江戸初期の旗本。甲州流軍学を継承し、北条流軍を立てた。『慶元記』。
 軍配術を、「いくさの勝敗を予知する術であって、その法はすべて陰陽数理に基づいたものである」と批判的に総括。
 兵学を中世的・呪術的な戦争の技術学から解放した。
 
●『日本戦史』(p222)
 『日本戦史』全13巻。明治22年(1889)から大正13年(1924年)にかけて編纂。陸軍参謀本部の参謀次長川上操六が推進。
 編集・執筆の中心になったのは、横井忠直(1845-1916)。豊前の儒医の家に生まれ、漢学塾で学んだ。『関原役』『山崎役』など合計12巻を書いた。
〔 正確で具体性のある戦闘関係の史料がえられなかったため、『日本戦史』が、江戸時代の娯楽本位に書かれた軍記物・軍談に頼りながら、強引に架空戦史を書いた点は、国民の歴史認識をゆがめる結果になっており、おおいに問題である。第三章で述べたように、長篠の合戦で織田軍が大量の鉄炮を動員し、三段撃ちによって武田の騎馬隊を粉砕したという、歴史教科書にも載っていた「新戦術」、歴史の誤った常識を作ったのは、明治三六年(1903)刊の『日本戦史 長篠役』であった。このほか織田信長が桶狭間の奇襲攻撃で、今川義元の大軍を破ったという常識も、事実に反することが明らかにされている。〕
 
●『武士道』(p233)
 新渡戸稲造『武士道――日本の魂』(英語版1900年。日本版1908年、桜井鷗林訳)。
 ヨーロッパの歴史・文学から多くを引証しつつ、武士道を解明している。
〔 しかし、その徳目は士道に多少似てはいるものの、近世に存在した士道・武士道とはまったく別物である。そもそも彼は日本の歴史や文化に詳しくなかった。『葉隠』を読んだ形跡もない。第一『葉隠』はまだ世に知られていなかった。新渡戸の主張する武士道は、片々たる史実や習慣、倫理・道徳の断片をかき集め、脳裏にある「武士」像をふくらませて紡ぎだした一種の創作である。しかも、戦闘から離れた、もはや武士とは縁の薄い一般道徳化している。〕
 
●滝口(p256)
 天皇家の家政機関である蔵人所に所属。宮廷の警備兵というより、むしろ天皇個人の私的な護衛兵としての性格が強い。
 滝口の役割で特に重要なのが鳴弦(めいげん)。弓に矢をつがえず、張った弦を手で強く引いて鳴らすこと。弦打(つるうち)とも呼ばれる。邪霊を払い、眼に見えぬ精霊を退散させる。弦音によって妖怪変化や魔障のものを驚かし、邪気・ケガレを払う役割を担っていた。
 
(2018/7/16)KG
 
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大隈重信自叙伝
 [歴史・地理・民俗]

大隈重信自叙伝 (岩波文庫)  
大隈重信/〔述〕 早稲田大学/編
出版社名:岩波書店(岩波文庫 38-118-2)
出版年月:2018年3月
ISBNコード:978-4-00-381182-5
税込価格:1,220円
頁数・縦:523, 8p・15cm
 
 
 『大隈伯昔日譚』(円城寺清編、立憲改進党々報局、1895年)、『大隈侯昔日譚』(松枝保二編、報知新聞社出版部、1921年)から、自伝的な部分を選んで収録。また、談話・演説・論説の中から、過去を振り返ったものをいくつか収録、3部構成とした。
 
【目次】
1 生立ちから征韓論政変まで
 少壮時代の教育と境遇―書生時代の事情
 生立ちと義祭同盟
 形勢一変と藩主閑叟
  ほか
2 東京専門学校開校前後まで
 台湾出兵と西南戦争
 開化政策の推進と明治十四年の政変
 東京専門学校と立憲改進党の創設
3 過去を顧みて―追懐談・追懐文
 我輩は慈母によりて勤王家となる
 余は如何に百難を排して条約改正の難局に当りたる乎
 爆弾当時の追懐
  ほか
 
【抜書】
●弘道館(p15)
 佐賀藩の藩校。
 6~7歳で「外生」(小学)として入学。
 16~7歳で「内生」(中学)に進み、25~6歳で卒業。
 卒業できなかった者は、家禄の十分の八を控除され、なおかつ藩の役人となることができない。嘉永3年(1850年)制定の課業法による。
 
●キリスト教(p99)
〔 余等は当時の一般人士と同じく基督教を以て国家に危害あるものと思えり。然るに、余等先に英書を学ぶに当り、毎々(まいまい)良師を欠きしを以て、やむをえず基督教の宣教師と称せられたるウイリアム、幷にフルベッキ等について英書の質問をなし、且つその講義を聴きしことありしが、少年者の好奇心として、側ら基督教の事をも研究せんと思い立ちたり。当時、基督教はなお厳禁なりしも、学理上より研究するは毫も不可なるなしと信じたるを以て、余は副島とともにおよそ一ヶ年半の間これが研究を為せり。然れども彼らの言うところは、大概浅薄にしてあたかも怪談奇話を聴くが如く、学識あるものに向っては格別の価値なしと思えり。只、余等はそのためにまた多少発明したるところなきにあらず。即ち基督教はこれまで世人の目したるが如く邪説魔法の分子を含むものにあらずして、等しく社会の人心に向って道徳を保持するを目的とするものなることを知りたり。簡短に言えば、基督教なるものの大体を知り得たりしなり。〕
 
●大久保利通(p335)
 西郷隆盛が西南戦争で斃れ、木戸孝允も京都で客死した。その際、大久保利通は以下のように語った。
〔君達は嘸(さぞ)自分を保守頑固な男だと思うたであろう。しかしこれは一方島津公と西郷とに制せられて動くことが出来なかったのである。然るに今やすでに西郷亡し。島津公とてそう何時までも我々をもとの家来同様に取扱う訳にも行くまい。今後は自分も思い切って国家のために尽くすの意を決した。これからは君等と同じ進歩主義となり、相ともに進もうと思う。今後十年間御互いが奮闘努力したならば、必ず偉大なる効果を収め得ると信ずる。〕
 
●福沢諭吉(p350)
 大隈は、福沢のことを〔旧幕府の学者にして吾輩の門に来ない者は無いのに、福沢の奴だけは来ない、怪しからぬ奴だ、傲慢な奴だと思うていた。福沢もああ云う先生だから、大隈の奴生意気千万だと思うていた。〕お互い、食わず嫌い。
 明治7年(1874年)ごろ、議論家や学者の会合があって、懇談会を催した。その席で福沢と出会う。〔忽ちにして百年の知己の如くに懇意になったんである。〕
 
●報知新聞(p358)
 明治14年政変の後、野に下った大隈は、さまざま事業に手を出したが、〔幾多の困難に遭遇した。あらゆる迫害と闘った挙句が、成功と云うまでには行かぬが、僅かにその艱難の記念(かたみ)として残った異物が、この早稲田大学と報知新聞とである。その他は形を変えて大学出版部と日清印刷となったのみで、他の物は一切メチャメチャに失敗した。〕
 ※日清印刷は、1935年(昭和10年)、秀英舎と合併して大日本印刷となった。(p468、注129)
 
●高等学院(p470、注139)
 早稲田大学の高等師範部(現教育学部)は、1903年(明治36年)に設置。
 早稲田尋常中学校(現早稲田中学・高等学校)は1896年に開校。
 高等予科は1901年(明治34年)に設けられ、1920年に高等学院に改組された。
 早稲田実業中学(現早稲田実業学校)は1901年に開校。
  
(2018/6/29)KG
 
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世界史のなかの昭和史
 [歴史・地理・民俗]

世界史のなかの昭和史
 
半藤一利/著
出版社名:平凡社
出版年月:2018年2月
ISBNコード:978-4-582-45452-9
税込価格:1,836円
頁数・縦:462p・20cm
 
 
 ドイツ(ヒトラー)、ソ連(スターリン)、米国(ルーズベルト)の動きにからめながら、大正末期から大戦終結までの昭和史を綴る。当時の日本が置かれた世界史のなかでの立場が理解できると同時に、その無謀さにも納得させられてしまう。
 修正史観的な見方にも一定の賛意を覚えるが、大儀なき日中戦争、そして、英蘭の虚をついて行われた帝国主義的な南方進出など、やはり大日本帝国軍(特に陸軍)の狂気は存在したのだろう。
 
【目次】
プロローグ 歴史の皮肉と大いなる夢想―長い探偵報告のはじめに
第1話 摂政裕仁親王の五年間―大正から昭和へ
第2話 満洲事変を中心にして―昭和五年~八年
第3話 日独防共協定そして盧溝橋事件―昭和九年~十二年
第4話 二つの「隔離」すべき国―昭和十二年~十三年
第5話 「複雑怪奇」と世界大戦勃発―昭和十四年
第6話 昭和史が世界史の主役に躍りでたとき―昭和十五年
第7話 「ニイタカヤマノボレ」への道―昭和十六年
エピローグ 「ソ連仲介」と「ベルリン拝見」―敗戦から現代へ
 
【著者】
半藤 一利 (ハンドウ カズトシ)
 1930年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役などを経て作家。著書は『漱石先生ぞな、もし』(正続、新田次郎文学賞)、『ノモンハンの夏』(山本七平賞)(以上、文藝春秋)など多数。『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』(平凡社)で毎日出版文化賞特別賞を受賞した。2015年、菊池寛賞を受賞した。
 
【抜書】
●スターリンのオウム(p109)
 スターリンは、自身が無作法に吐く唾の音を上手に真似るオウムが神経に触るといって、愛用のパイプでその頭を殴り続け、殺してしまった。オウムまで粛清してしまった!
 
●対中戦略(p150)
 〔盧溝橋の一発からはじまった戦闘は、不拡大の声をすべて押し潰して、あえて”なぜ”と問いたくなるほど急激に拡大していきました。〕
 陸軍には、中国とまともに戦争を行う戦略戦術がもともとなかった。
 昭和11年(1936年)に改定された「帝国国防方針」「用兵綱領」は、一貫して米国とソ連を仮想敵国に想定し、陸海軍がそれらといかに戦うかについて綿密な作戦計画が練られたもので、中国に対しては居留民の保護などを目的とした治安出動の計画の検討にとどまっていた。
 参謀本部の判断では、中国大陸で事があった時、使用可能兵力は11個師団、予備を加えても15個師団(約28万人)がせいぜい。長期戦となったらあの広大な大陸では用兵的にも重大危機に立ち至る。
 陸軍省整備局の見積もりでは、大砲などの弾薬の貯蔵保有量は15個師団の約8か月分しかなかった。
 戦闘は早めに切り上げて、当面は戦備充実につとむる秋、という主張が、陸軍中央部にはあった。
 
●200ℓのガソリン(p447)
 1945年4月30日午後4時から5時の間に、ヒトラーは総統官邸の地下壕の私室で、拳銃によって自殺した。
 死体は毛布に包まれて運び出され、帝国官房の庭で約200ℓのガソリンをかけられて完膚なきまでに焼かれた。
 
(2018/6/15)KG
 
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日本人だけが知らない世界から尊敬される日本人
 [歴史・地理・民俗]

日本人だけが知らない世界から尊敬される日本人 (SB新書)  
ケント・ギルバート/著
出版社名:SBクリエイティブ(SB新書 419)
出版年月:2018年1月
ISBNコード:978-4-7973-9371-2
税込価格:864円
頁数・縦:191p・18cm
 
 
 日本ではあまり知られていない、世界的に有名で偉大な日本人を紹介。
 
【目次】
序章 世界が日本人を恐れた「黄禍論」の呪縛
 「黄禍」という大誤解
第1章 現代日本の礎を築いた日本人
 「MADE IN NAPAN」を世界一の冠にした立役者――盛田昭夫
 「食」で世界を驚嘆させた巨人――安藤百福(日清食品)
 「生活」「文化」の両輪で日本社会をつくった男――小林一三
第2章 誇り高く学問を探求した日本人
 「黄禍論」の餌食となった近代科学の父――高峰譲吉
 天皇陛下も評価した孤高の博物学者――南方熊楠
第3章 世界の常識を作った日本人
 乾電池を発明した知られざる英雄――屋井先蔵
 家事の概念を覆した改革者――三並義忠(電気炊飯器)
 占領軍に着想を得た発明者――岡田良男(カッターナイフ)
第4章 新たな世界を切り拓いた日本人
 世界から称賛される日本建築界の巨星――丹下健三
 「用の美」を追い求めた探求者――榮久庵憲司
 翻訳書と共に評価された日本文学の代表者――川端康成
 氷の世界に光明をもたらした冒険家――和田重次郎(アラスカ探検)
 日本を代表する近代登山の父――槇有恒
第5章 人道・平和に命をかけた日本人
 大和魂を世界に伝えた「伝道師」――新渡戸稲造
 命のビザで難民に手を差し伸べた外交官――杉原千畝
 
【著者】
ギルバート,ケント (Gilbert, Kent Sidney)
 1952年、アイダホ州に生まれ、ユタ州で育つ。1970年、ブリガムヤング大学に入学。翌1971年にモルモン宣教師として初来日。その後、国際法律事務所に就職し、企業への法律コンサルタントとして再来日。弁護士業と並行してテレビに出演。2015年、公益財団法人アパ日本再興財団による『第8回「真の近現代史観」懸賞論文』の最優秀藤誠志賞を受賞。
 
【抜書】
●屋井先蔵(p92)
 屋井先蔵(やい さきぞう)、1863年、長岡藩士の子として生まれる。13歳の時、東京都の時計店で丁稚奉公を始める。
 1885年、独学で、液体式の電気で動く「連続電気時計」を発明。1891年、特許を取得。日本では、電気関係の最初の特許。
 1887年、東京物理学校(後の東京理科大学)で付属職工と働いていた頃、韓電池を発明。しかし、資金難で特許を取得できなかった。
 乾電池の特許を取ったのは、高橋市三郎。
 海外では、1887年、ドイツでカール・ガスナー、デンマークでヘレセンが特許取得。
 日清戦争と日露戦争において、無線機などで乾電池が活躍。小型で持ち運びやすく、極寒の土地でも電池の中の液体が凍らない。中国とロシアは、電池の液体が凍って前線で無線が打てなかった。
 屋井乾電池は陸軍で全面採用。「日清戦争に勝利できたのは乾電池のおかげ」と、新聞でも報道された。
 明治後半から大正にかけて、屋井乾電池は国内で大きなシェアを獲得。屋井は「乾電池王」と呼ばれるまでになった。
 
●オルファ(p108)
 岡田良男、1931年、大阪生まれ。1956年にカッターナイフを考案。
 着想の元は、板チョコとガラスの板。ガラスを切るとき、表面に傷をつけてポンと押すと割れる。
 社名のオルファ……「折る刃」から。「オルハ」は、フランス語で変な意味のスラングになるため。
 
●榮久庵憲司(p122)
 榮久庵憲司(えくあん けんじ)、1929年、東京生まれ、2015年没。日本におけるインダストリアルデザインの先駆者。
 父は浄土真宗の僧侶。幼いころにハワイに移住。1937年に帰国。
 1950年、東京芸術大学美術学部に進学。
 1957年、GKインダストリアルデザイン研究所を設立、所長に就任。国内で様々な製品やロゴなどのデザインを手掛ける。
 1973年、「第8回世界インダストリアルデザイン会議」を京都で開催。
 国際インダストリアルデザイン団体協議会会長も務める。コーリン・キング賞(インダストリアルデザイン界のノーベル賞)受賞。フランス、イタリアから勲章を贈られる。
 《作品》
 ・キッコーマンの卓上醤油瓶
 ・東京都のシンボルマーク
 ・JRAのロゴ
 ・ミニストップのロゴ
 ・広島電鉄の車両
 ・秋田新幹線「こまち」の車両
 ・成田エキスプレスの車両
 ・ゆりかもめの車両
 ・JR西日本の「Red Wing」の車両
 
●東條英機(p185)
 ユダヤ人を救ったのは、杉原千畝だけではない。そのうちの一人は東條英機?
 1938年、ハルビン特務機関長だった陸軍の樋口季一郎は、極東に逃げてきたユダヤ人難民を救済。この時、南満州鉄道の臨時列車を走らせたのは、満鉄総裁だった松岡洋右。
 樋口の行為に非難が高まると、関東軍参謀長であった東條英機は、樋口の行為を容認。ドイツの外務省の抗議に対し、「人道上、当然だ」と応じた。
 
(2018/6/10)KG
 
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維新の悪人たち 「明治維新」は「フリーメイソン革命」だ!
 [歴史・地理・民俗]

維新の悪人たち  「明治維新」は「フリーメイソン革命」だ!  
船瀬俊介/著
出版社名:共栄書房
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-7634-1079-5
税込価格:2,160円
頁数・縦:315p・20cm
 
 
 幕末・明治維新期の「裏の歴史」(!?)を描く。すなわち、明治維新は、世界的秘密結社フリーメイソンの陰謀によって成立したと説く。
 
【目次】
第1章 フリーメイソンは、もはや“秘密”ではない―「戦争」と「革命」を起こしてきた“奴等”
第2章 「南北戦争」から「明治維新」への仕掛け―維新は「南北戦争」の在庫処理だ!
第3章 “碧い眼”の諜報員たち―操られた幕府、煽られた志士たち
第4章 維新の群像フルベッキ写真の虚実―志士“洗脳”の決定証拠がメイソン本部へ
第5章 煽られ、操られた志士たちの狂奔―裏の裏には裏があり!秘密結社の深謀遠慮
第6章 孝明天皇は、伊藤博文に刺殺された―下忍テロリストは、かくして総理大臣となれり
第7章 明治天皇すりかえ事件!近代史最大スキャンダル―長州の大室寅之祐、かくして明治大帝となれり
第8章 誰が龍馬を殺させた?幕末最大ミステリー―諸説紛々、暗殺犯はいずこに…
第9章 日本を裏から操る「田布施システム」とは何か?―長州こそは、今も昔も、メイソンの巣窟…
 
【著者】
船瀬 俊介 (フナセ シュンスケ)
 1950年、福岡県生まれ。九大理学部を経て、早大文学部、社会学科卒業。日本消費者連盟スタッフとして活動の後、1985年、独立。以来、消費・環境問題を中心に執筆、評論、講演活動を行う。
 
【抜書】
●スタンリー・キューブリック(p38)
 キューブリックは、『アイズ ワイド シャット』を公開直後、不審死を遂げた。試写会の2週間後に心臓発作に襲われた。
 映画の題材がフリーメイソンの秘密会合を描いていたので、暗殺された?
 
●英王室(p39)
 1717年、フリーメイソンはロンドンに大ロッジを設置。英連合グランド・ロッジ。「このグランド・ロッジの創設と、初代グランド・マスターが選出されたことを機に、個人的な集まりでしかなかったフリーメイソンが表立った組織となり、ヨーロッパ各地に、次々にグランド・ロッジがつくられていく」(並木伸一郎『「秘密結社」の謎』三笠書房)。
 1723年、「フリーメイソン憲章」制定。石工の職能組合から変貌。実直な石工職人たちは追い出され、政治的、経済的、文学的野心を抱いた政治家、資本家、知識人たちに乗っ取られた。
 1737年、イギリス王子フレデリック・ルイスがフリーメイソンに入会。以後、イギリス王室では、フリーメイソンに加入することが慣例になった。
 1902年に戴冠したエドワード7世は、英国連合グランド・ロッジのグランド・マスターの座についている。
 英国支配階級にとって、この秘密結社による国際情報ネットワークは垂涎の的だった。
 
●アルバート・パイク(p59)
 アルバート・パイク、1809-1891、南北戦争の南軍総大将。
 フリーメイソンのトップ、教皇の座に上り詰めた。「黒い教皇」の異称がある。
 過激な白人至上主義者で、KKK(クー・クラックス・クラン)の創設者。
 1871年、将来起こる、三つの大戦を予言。
 第一次大戦……「ツァーリズム(絶対君主制)のロシアを破壊し、その広大な土地をイルミナティの代理人の直接管理のもとに置くために仕組まれる。そして、ロシアはイルミナティの目的を促進するためのお化け役として利用されるだろう」。サラエボでのハンガリー帝国の皇太子暗殺犯が、フリーメイソンであると自供。
 第二次大戦……「ドイツの国家主義者(ファシスト)と、政治的シオニスト(ユダヤ人国家をパレスチナに建設しようとする人々)との間に生まれる圧倒的な意見の対立を利用して引き起こされる。最終的には、この戦争でファシズムが崩壊し、政治的シオニストは増強し、パレスチナにイスラエル国家が建設される」。
 第三次大戦……「シオニストとアラブ人との間で、イルミナティの代理人によって引き起こされるだろう。それによって、世界中に紛争が飛び火し、キリスト教に失望した大衆は、ルシファー(堕天使・悪魔)を信奉するようなった結果、真の光を享受するだろう」。
 
●西周、津田真道(p147)
 明六社の西周と津田真道は、日本人のフリーメイソン1号と2号だった。
 1864年、オランダ留学中、ライデン市にある「ラ・ベルトウ・ロッジ・7」で入会の秘儀を受けた。
 
●青い目五人衆(p162)
 〔幕末から明治にかけて、日本は、オールコック、パークス、サトウ、グラバー、フルベッキの「青い目五人衆によって、巧妙に扇動され、操作されていく……。むろん、狡猾な青い目たちは、表向きは外交官、通訳、商人、宣教師である。〕
 グラバー、サトウ、フルベッキは、「白人御三家」。作家の加治将一が命名(p105)。
 
●大室寅之祐(p228)
 孝明天皇は伊藤博文らに暗殺され、明治天皇は大室寅之祐にすり替えられた?
 南朝の皇統は途絶えることなく、幕末に三つの分家が存在した。大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家。
 長州では、光良(みつなが)親王の子孫、大室天皇家をかくまっていた。
 東京遷都は、天皇すり替えがバレないようにするため? 京都には睦仁親王を知る人たちが多くいるので、明治天皇が偽物であることがバレる可能性が高かった。
 
●田布施(p281)
 明治維新の始まりは、1867年、「王政復古の大号令」。
 大号令は、山口県田布施町の高松八幡宮で発せられた。幕末、七卿落ちの公家たちが落ち延びた場所。
 
(2018/5/27)KG
 
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天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか 変わらぬ皇統の重み
 [歴史・地理・民俗]

天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか 変わらぬ皇統の重み (PHP新書)  
竹田恒泰/著
出版社名:PHP研究所(PHP新書 1123)
出版年月:2018年1月
ISBNコード:978-4-569-83728-4
税込価格:994円
頁数・縦:382p・18cm
 
 
 宮沢教授が唱えた「八月革命説」に対する反論。大日本帝国憲法下の日本は「天皇主権」「神勅主権」ではなく、明治維新以来、日本は「国民主権」の民主主義国家だったというのが趣旨か。
 帝国憲法では天皇が「統治権を総攬」する地位にあったが、その前提として、国務大臣が輔弼し、陸軍・海軍の両統帥部長が輔翼することが原則だった。天皇が独裁することはほぼ不可能であった。
 一方、日本国憲法において、天皇は決して象徴としてだけの存在ではない。天皇には12の国事行為(第六条、第七条)があり、これらは国政に関する行為である。天皇は、これらの行為を「内閣の助言と承認」によって行っている。
 すなわち、旧新の憲法は、連続性のある内容となっており、「根本建前」が大きく変わったわけではない、というわけである。
 
【目次】
プロローグ 「八月革命説」へ新たな視点を
第1章 旧新憲法間における根本建前の変動
 宮沢教授のいう「根本建前」とは何か
 「天皇主権」の意味
  ほか
第2章 実体としての政治権力の変動
 旧新憲法間における天皇の権能の相違
 「輔弼」と「助言と承認」の相違
  ほか
第3章 理念としての政治権力の変動
 天皇の地位の根拠
 天皇は神か
  ほか
第4章 連合国は国民主権主義の採用を要求したか
 天皇の地位に関する米国の初期の見解
 ポツダム宣言は国民主権主義採用の要求を含むか
  ほか
エピローグ 二〇〇〇年続いた日本の君民共治
 
【著者】
竹田 恒泰 (タケダ ツネヤス)
 昭和50年(1975年)、旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫に当たる。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。専門は憲法学・史学。作家。平成18年(2006年)に著書『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)で第一五回山本七平賞を受賞。
 
【抜書】
●八月革命説(p22)
 宮沢俊儀教授が提唱。
 八月革命説の三段論法:
 (第1段:大前提)憲法改正には限界がある。
 (第2段:小前提)帝国憲法から日本国憲法への改正は、憲法改正の限界を超えるものであった。
 (第3段:結論)ポツダム宣言受諾と同時に法学的意味における革命が起きたと考えることによって、帝国憲法の改正手続きによる形式をとった新憲法が違法でないとされ得る。
 
●天皇の大権(p93)
 帝国憲法第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。
 帝国憲法の起草者である井上毅と、起草責任者の伊藤博文は、天皇の統治権(大権)は固有のものではなく、憲法によって制限されるということにこだわった。そうでなければ、「憲法政治ニアラス無限専制ノ政体ナリ」(伊藤。枢密院の第二会議、明治21年6月18日午後)。
 両氏は、憲法に神話を持ち込まないことを徹底した。
 
●五箇条の御誓文(p226)
 いわゆる昭和天皇の「人間宣言」(昭和21年元日の詔書)の冒頭に、五箇条の御誓文の全文が掲げられている。
 宣言の第一の目的は、五箇条の御誓文だった。日本の国民に「誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました」(昭和52年8月23日の記者会見にて、昭和天皇の談話)。
 幣原喜重郎首相がGHQのマッカーサー最高司令官に五箇条の御誓文を示すと、マッカーサーは称賛し、宣言に全文を入れることを指示。〔御誓文の精神が、戦後日本が目指すべき民主主義の原理と矛盾するものではないことを、元帥自らが認めたことを意味する。〕
 
●国体明徴声明(p231)
 昭和10年8月3日、岡田啓介内閣は、「第一次国体明徴声明」を発表した。
 帝国憲法第一条が定める天皇統治の根拠が「天壌無窮の神勅」である旨が公式に表明された。
 昭和11年に、文部省によって『国体の本義』が編纂された(公刊は昭和12年3月)。「天孫降臨」が国の始まりであるという解釈が記され、天皇が「現人神」であることが記された。公文書に初めて「現人神」の語が記された。
 それまで、政府は天皇統治の根拠を神勅に求める見解をとってこなかった。
 〔満州事変を契機に戦時体制が強化される過程において、天皇の絶対性を確認しようとする運動が、天皇機関説の排除を突破口に、「国体明徴運動」を引き起こしたことで、天皇と国体について、国の公式な見解が大きく変化することになった。〕
 
●原爆2個(p287)
 トルーマン〔大統領は、原子爆弾を投下して日本を降伏させようとしたのではなく、日本が降伏する前に原子爆弾を投下しようとしていた〕。
 太平洋戦争末期、米国が所有していた原子爆弾は2個。原爆を使用しても日本が一向に降伏しなければ、原爆の使用自体が国際社会から厳しく非難されることは必至。
 原爆の投下が完了するまでは日本が降伏しないように「天皇の地位の保障」を拒み、投下が完了した後は、日本の降伏を促すために「天皇の地位の保障」を伝えた。バーンズ国務長官の回答文(1945年8月12日)。
 
(2018/5/18)KG
 
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倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア
 [歴史・地理・民俗]

倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書)  
河内春人/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2470)
出版年月:2018年1月
ISBNコード:978-4-12-102470-1
税込価格:929円
頁数・縦:246p・18cm
 
 
 5世紀(421~478年)に宋に朝貢した倭の五王(讃、珍、済、興、武)とは誰なのか? 通常、仁徳(または履中)、反正、允恭、安康、雄略の各天皇に比定されているが、はたして本当だろうか?
 本書では、この五王が誰とは断定していないが、これまでの論証にすべて疑問を呈する。要するに、誰だか分らないということである。
 むしろ、倭の五王が記・紀に登場するどの天皇に当たるのかを問うことより、この時代の朝鮮半島や日本の情勢と、朝貢に及んだ背景を探ることに言を費やし、5世紀の東アジア史を描くことを主眼に置いている。
 
【目次】
序章 四世紀後半の東アジア―倭国「空白」の時代
第1章 讃の使節派遣―一五〇年ぶりの対中外交
第2章 珍から済へ、そして興へ―派遣の意図と王の権力
第3章 倭王武の目指したもの―激動の東アジアのなかで
第4章 倭の五王とは誰か―比定の歴史と記・紀の呪縛
終章 「倭の五王」時代の終焉―世襲王権の確立へ
 
【著者】
河内 春人 (コウチ ハルヒト)
 1970(昭和45)年東京都生まれ。93年明治大学文学部卒業。2000年明治大学大学院博士後期課程中退。02年日本学術振興会特別研究員(PD)、博士(史学)。明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師。
 
【抜書】
●畿内の巨大古墳群(p15)
 畿内の巨大前方後円墳の所在地は、五つの地域に集中している。時代が下るにつれて巨大化した。
 それぞれ同一勢力が同じ地域に古墳を造営し続けた。
 (1)大和(おおやまと)・柳本古墳群……奈良盆地南東部。
 (2)佐紀(さき)古墳群……奈良盆地北部。4世紀。
 (3)古市古墳群……大阪・河内地域。4世紀末。
 (4)馬見古墳群……奈良盆地西部。5世紀初頭。
 (5)百舌鳥古墳群……大阪・和泉地域。5世紀半ば。
 
●重訳外交(p19)
 重訳(ちょうやく)外交……中国の遠方の国が中国に朝貢する際に、その交通路上にある別の国が介在することを重訳という。周辺国がさらにその周辺を引き連れて中国と外交する形式を重訳外交という。
 
●長寿王(p33)
 413年、高句麗の広開土王が死去。新王は、巨連。在位は、491年までの79年。死後、長寿王と呼ばれた。
 この年、高句麗が江南の東晋に70年ぶりに使節を派遣した。同時に、倭国も同様に外交使節を派遣した。しかし、この朝貢は高句麗による偽使節の可能性が高い。「貂皮(ちょうひ)・人参(朝鮮人参)等を献じた」とあるが、いずれも朝鮮半島の名産品である。
 
●起居注(p35)
 皇帝の日常の動静の記録。政務内容も含まれる。
 歴史を編纂する際の基礎資料となる。その皇帝が死去すると、皇帝の一代記として記録が作られる。
 そして、王朝が滅亡すると、歴代の実録やその他の資料に基づいて史書が完成する。
 外国の到来などの記録は、本紀と列伝(人物や外国の事績)のどちらかあるいは両方に掲載されることになる。
 
●古墳時代の戦争(p156)
 考古学的な立場からの分析では、古墳時代に列島社会で大きな戦争は確認できない(下垣仁志「古代国家論と戦争論」『日本史研究』654、2017年)。
 考古学の研究では、戦争の有無を確認する指標として、防御集落、武器、殺傷人骨、武器の副葬、武器型祭器、戦士・戦争場面の造形などがある。弥生時代には、高地性集落や矢じりの刺さった人骨など、戦争の痕跡は多く発見されている。
 しかし、古墳時代になると、そのような遺跡・遺物が見られなくなってくる。
 
●省画(p185)
 省画(しょうかく)……金属や石に文字を記す場合に、画数の多い字は省略して記すこと。
 「漢委奴国王」の「委」は「倭」の省画。
 「各田卩」(6世紀後半の岡田山一号墳出土鉄剣銘)は「額田部」。「ぬか・た・べ」と読む、訓読みの最古の事例。
 
(2018/5/3)KG
 
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吉原と日本人のセックス四〇〇年史
 [歴史・地理・民俗]

吉原と日本人のセックス四〇〇年史  
下川耿史/著 永井義男/著
出版社名:辰巳出版
出版年月:2018年2月
ISBNコード:978-4-7778-1976-8
税込価格:1,512円
頁数・縦:206p・19cm
 
 
 1618年の吉原営業開始から400年。江戸時代を中心に、日本の色事情を対談を通して描く。
 
【目次】
第1章 吉原前夜~元吉原
 「売春」の定義
 新興都市としての江戸
  ほか
第2章 新吉原
 吉原の幻想
 大名と吉原
  ほか
第3章 岡場所
 岡場書の定義
 岡場所のピンとキリ
   ほか
第4章 地方の性風俗
 筆おろしと青年団
 夜這いの歴史
  ほか
第5章 近代以降の性生活
 「遊廓=吉原」という幻想
 「遊廓」の定義
  ほか
 
【著者】
下川 耿史 (シモカワ コウシ)
 1942年生まれ。新聞社勤務後、作家として性風俗研究についての著作を多く執筆している。
 
永井 義男 (ナガイ ヨシオ)  
 1949年生まれ。『算学奇人伝』で第6回開高健賞を受賞。時代小説家として100作以上の著作を持ち、最近では江戸の性風俗を研究した著作を多数刊行している。
 
【抜書】
●遊郭の発祥(p14、下川)
 1589年(天正17年)、豊臣秀吉が京都に開設したのが始まり。のちの島原遊郭。
 
●吉原遊郭の誕生(p21、下川)
 1617年(元和3年)、江戸幕府が吉原遊郭を許可。翌年から営業開始。元吉原。場所は、現在の日本橋人形町。
 
●新吉原(p38、永井)
 1657年(明暦3年)6月、浅草寺裏の千束村に移転。家綱の時代。
 2町×3町の広さだった。元吉原は2町×2町。1町は約109m。
 日本橋は江戸の中心部で、土地の有効活用のために田舎に移転させられた。
 元吉原では昼間の営業のみだったが、新吉原では夜間営業(泊り)も認められるようになった。僻地のため。
 
●商業出版(p60、下川)
 日本で商業出版がスタートしたのは、1603年(慶長8年)。京都に初の出版社が開業。
 その後、京都に本を売る本屋が次々に開店。1650年(慶安3年)ごろには、市中に72件の本屋があった。
 
●四十八手(p76、下川)
 四十八手の由来……戦国時代、浄土宗や一向宗(現浄土真宗)は、中級以下の武士や庶民たちに広まっていった。その教えのなかに、阿弥陀如来の四十八の請願というものがある。阿弥陀如来が人間を救うために到達したいと念じた四十八の悟りのこと。
 当時の相撲は、生死をかけた戦いだったところから、「四十八手」は、戦闘で生き残るための「四十八の技」という意味でが用いられた。
 浮世絵の歴史は、1677年(延宝5年)、菱川師宣の『表四十八手』の刊行に始まる。
 
●盆踊り(p118、下川)
 盆踊りは、中世の念仏踊りから起こったもの。最初から男女の乱交を伴ったレジャーだった。江戸時代には、各地で大変盛んになった。
 
●桜川(p153、下川)
 江戸後期に興った、吉原の幇間の名跡。現在まで続いており、浅草には女性初の幇間が活躍している。
 
(2018/5/1)KG
 
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ポンコツ武将列伝
 [歴史・地理・民俗]

ポンコツ武将列伝  
長谷川ヨシテル/著
出版社名:柏書房
出版年月:2017年12月
ISBNコード:978-4-7601-4934-6
税込価格:1,512円
頁数・縦:253p・19cm
 
 
 世襲が原則の戦国武将。親が武勇に秀でていたとしても、その血まで「世襲」とはいかないもの。数多の「不肖の息子」たちが生まれた。
 そんなポンコツな武将を一堂に集めて紹介する。
 
【目次】
第1章 どうしてこんなに勝てないの?―戦ベタ編
 小田氏治―連戦連敗のポンコツ・オブ・ポンコツ。なぜか憎めない「常陸の不死鳥」
 源行家―源頼朝の叔父は無能の指揮官!? 平家打倒の兵を挙げるが連戦連敗
 佐久間信盛―撤退戦は得意だが、攻めるのは苦手。信長から追放された悲劇の武将
 織田信雄―何をしても、何もしなくても、色々やらかす信長の「不肖の息子」
 徳川秀忠―関ヶ原の戦いに遅刻した家康の三男は名中継ぎ役
第2章 人が良いのか悪いのか、ドジっ子武将―天然・変人編
 熊谷直実―口下手&頑固な頼朝の重臣の不器用すぎる生き方は、元祖天然男!
 毛利隆元―優秀な二人の弟がいたため超ネガティブ! ポンコツを自覚していた自虐武将
 伊達政宗―ポンコツだって伊達じゃない!? 謝罪・言い訳・酔っ払いの人生
 服部半蔵―パワハラで家臣からスト、首謀者を斬るが人違い。最後は大坂の陣で行方不明
 堀尾忠氏―良いアイディアはライバルにパクられ、最期は祟りで世を去ったツイてない武将
第3章 戦は嫌い、太平の世なら名君主?―文化傾倒編
 足利義政―政治よりも銀閣寺の建築に全力を尽くす、「ミスター応仁の乱」の、のんき人生
 細川政元―「応仁の乱」によって生み出された「半将軍」のアブない性癖
 大内義隆―公家文化にはまり、家臣に見放される。大内家の最盛期と衰亡を一人で招来
 今川氏豊―今川義元の弟は底抜けのお人良し? 趣味仲間に城を奪われる大失態
 今川氏真―義元の跡を継ぐも武将の才に恵まれず、和歌と蹴鞠の世界に生きる
 兵主源六―同じポンコツなら踊らにゃ損? 山陰の知られざる迷将
第4章 飲んだらダメ、絶対に!―酒色耽溺編
 斎藤龍興―酒、女大好き。側近を重要しすぎて竹中半兵衛に稲葉山城を乗っ取られる
 蘆名盛隆―男色のもつれで美少年の小姓に暗殺された超絶イケメン武将
 薄田兼相―「大坂の陣」の時、遊郭に行っている間に自分の砦を落とされてしまう……
 福島正則―酒豪ランキング・ナンバー1武将は、酒癖の悪さも天下一品
 本多忠朝―二日酔いで戦に敗走。今は禁酒の神様に!
 徳川綱吉―極度のマザコン!? 犬も女性も大好き。不倫がバレて妻に刺殺される?
第5章 自分の命だけは絶対守る!―臆病・狡猾編
 荒木村重―織田に攻められ、妻子を置いて逃走…生き延びて秀吉の御伽衆として再登場!
 織田有楽斎―武士としては卑怯だが、文化人として名を残す信長の弟
 仙谷秀久―成り上がり人生の裏には、すたこらっさっさの逃走劇
 毛利輝元―関ヶ原でも大坂の陣でも二股命? 優柔不断な西の雄
 徳川慶喜―決断力の早さはピカイチだが、逃げ足も速すぎた最後の将軍
 
【著者】
長谷川 ヨシテル (ハワガワ ヨシテル)
 歴史ナビゲーター、歴史作家。埼玉県熊谷市出身。熊谷高校、立教大学卒。漫才師としてデビュー、「芸人○○王(戦国時代編)」(MBS、2012年放送)で優勝するなどの活動を経て、歴史ナビゲーターとして、日本全国でイベントや講演会などに出演、芸人として培った経験を生かした、明るくわかりやすいトークで歴史の魅力を伝えている。テレビ・ラジオへの出演のみならず、歴史に関する番組・演劇の構成作家や、歴史ゲームのリサーチャーも務めるほか、講談社の「決戦!小説大賞」の第1回と第2回で小説家として入選するなど、幅広く活動している。
 
【抜書】
●改易(p63)
 徳川秀忠は、家康の死後、将軍中心の政治を推し進め、多くの大名を改易した。広島城主の福島正則、家康側近の本多正純、弟の松平忠輝(家康六男)、甥の松平忠直(結城秀康の息子)、など。
 
(2018/4/28)KG
 
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海賊がつくった日本史
 [歴史・地理・民俗]

海賊がつくった日本史
 
山田順子/著
出版社名:実業之日本社
出版年月:2017年8月
ISBNコード:978-4-408-33712-8
税込価格:1,728円
頁数・縦:311p・19cm
 
 
 瀬戸内の多賀谷海賊の子孫が、海賊という視点から日本史に迫る。日本の歴史が形作られるうえで、海賊たちがいかに活躍してきたかを語る。それは、四辺を海に囲まれた島国ならではの歴史でもある。
 ただし、海賊といっても、単に強盗の類を指すのではない。「海族」と呼んだほうが正確なのかもしれない。彼らは海の民であり、操船の専門家である。海上交通の役目を担い、物資の流通、人々の移動にも貢献した。
 一方、海賊そのものの歴史という観点から見ると、各地にばらばらに割拠していた自主性の強い集団から、封建領主や幕府など、権力側に取り込まれていくという大きな流れが存在する。「海の武士団」となり、「警固衆」となり、やがては「水軍」に進化していく。陸の権力が強まり、海賊稼業が成り立たなくなっていくのだ。そして、いまの平和な海が生まれた。
 それにしても、編集者の手が十分に入っていないのか、時間がなかったのか、こなれない文章と誤植の多さが残念である。
  
【目次】
第1章 古代―海の神話と海賊の誕生
 海の神の系譜
 神武天皇と徐福
  ほか
第2章 中世(平安~鎌倉時代)―海の神話と海賊の誕生
 藤原純友は海賊なのか
 海の武士団登場
  ほか
第3章 戦国時代前夜―南北朝・応仁の乱で活躍した海賊たち
 南北動乱と瀬戸内海
 海賊の代名詞的存在・村上一族の歴史
  ほか
第4章 戦国時代―海賊から水軍に、そして大名へ
 戦国大名と警固衆
 東海の海賊―今川・武田
  ほか
 
【著者】
山田 順子 (ヤマダ ジュンコ)
 時代考証家。1953年広島県生まれ。専修大学文学部人文学科卒業。CMディレクター、放送作家を経て時代考証家となる。1982年から『クイズ面白ゼミナール』(NHK)の歴史クイズの出題・構成を担当。以後多くの番組の時代考証と構成を担当。自らもテレビ出演や講演会などで歴史解説を行ない、江戸東京博物館の『ぶらぶら町人』などのイベントやテレビCMの時代考証も行なう。
 
【抜書】
●海の神(p28)
・大綿津見神……住吉大社の祭神。朝鮮系の海の神。
 朝鮮語で、ワタ=海、ツ=(助詞)、ミ=霊。
 息子に「底津綿津見神」「中津綿津見神」「上津(うわつ)綿津見神」がいて、三神あわせて「綿津見神」とも言う。
 安曇(あづみ)氏の祖先。
 摂津国の住吉大社(大阪府住吉区)が総本社で、全国に2,300社ある。
・大山津見神……越智、河野、村上の諸氏が信仰。
 大山祇神社は、伊予国大三島(今治市)に鎮座。
 越智氏が、祭主である大祝(おおほうり)を務める(p66)。初代は越智玉純の子である安元、707年。
 大山津見神は、本来、山の神だったが、娘の木花佐久夜姫の曽孫である神武天皇に従って、大山津見神の子孫も東征た。
 もともと、中国から渡来した人たちの子孫で、「ノマ」という航海の神を祀る一族だった。そのため、最初に土着した鹿児島の大隅半島の西の先端にある山にノマ神を祀り、「野間岳」「野間半島」という地名がついた。伊予国の高縄半島にも、「野間郡」(今治市)という旧郡名がある。
・宗像三女神……玄界灘の宗像海賊に信仰された、朝鮮と深く関係する神。
・宇佐神宮……神功皇后、応神天皇。
 全国にある八幡宮の総本山。分社に、京都の石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などがある。
 祭神は応神天皇、宗像三女神、神功皇后の三柱。
 八幡神は、室町時代に朝鮮半島や中国沿岸に出没した「倭寇」の旗印だった。そのため、八幡=海賊のイメージが東アジア諸国に広まった。
 
●徐福伝説(p32)
 斉の役人であった徐福は、2度、航海に出た。
 最初はBC219年。「東の海の彼方、三つの蓬莱、方丈、瀛州(えいしゅう)という神山があって、そこには不老不死の薬があります。それを陛下(始皇帝)に献上したいので、力を貸してください。」
 2度目は、BC210年。何の成果もなく帰国した徐福は、始皇帝に追及され、再び航海に出る。3,000人の若い男女、いろいろな技術を持った工人、5種類の穀物の種を始皇帝から預かる。しかし、徐福は戻ってこなかった。日本に移住した? 3,000人の兵ではなく、若い男女という点が怪しい。
 日本各地に徐福伝説が残る。特に、徐福宮と徐福の墓のある和歌山県新宮市と、三重県熊野市。熊野川の河口から1kmの地点には、「蓬莱山」(標高50m)という小山もある。
 徐福は、神武天皇なのか?
 ※しかし、『よみがえる神武天皇 日本書紀の暗号を読み解く』の「春秋2倍暦」説によれば、神武の大和の国建国は紀元前37年。この説とは年代が合致しない。
 
●日本水軍(海軍)(p44)
 日本の水軍(海軍)の嚆矢は、神功皇后の新羅征伐。
 これは神話の話だとしても、4世紀には朝鮮半島とはかなり活発に行き来していた。ヤマト朝廷は、全国の海族を国家の水軍として編成した。
 
●郡司(p66)
 8世紀の初めに律令制が始まると、国造は祭祀を行う神官となった。
 代わりに実権を持ったのが、律令制で「郡司」と言われる郡役所の官僚たち。そのほとんどは国造の一族の中から有力者が任命された。
 
●渡辺党(p104)
 摂津国渡辺津……現在の大阪市の中心部あたり、旧淀川の河口。瀬戸内と京を結ぶ水運の拠点で、瀬戸内海最大の港だった。古代には難波津と呼ばれた。
 平安時代後期、嵯峨天皇の皇子で臣下した源融を祖とする源綱がこの地に住み、「渡辺」を名字とし、渡辺氏を興した。子孫が渡辺党と呼ばれる武士団に発展し、海賊として名を馳せるようになった。
 
●海賊の戦法(p111)
 壇ノ浦の決戦において、潮に逆らう形になって苦戦した源氏軍は、平氏の水手や梶取(かんどり)をあえて狙い撃ちして、船の自由な操船を妨げた。
 当時の戦いは武士だけで行うのが常識で、馬の口取りや、操船をする水手や梶取は身分が違うということで、戦う相手ではなかった。武士の戦いに海賊の戦法が入ってきた。
 
●船名(p135)
 正安(しょうあん)3年(1301年)、鎮西探題から豊後国に出された「海賊を鎮圧するための」命令に、「津々浦々の船につき、船の大小にかかわらず、住所や船主の名前を船に刻み付けその数を報告せよ」とある。
 現代でも船首部分に「〇〇丸」と書かれているが、その発端。
 
●寄船、関銭(p144)
 寄船(よりふね)……海難事故に遭って船や積み荷が岸に漂着すると、その船や積み荷は持ち主がいない拾得物になるという慣習。この慣習を拡大解釈して、軽微な破損で航行不能状態になれば、漂着船だと言って押し掛け、積み荷を奪うという、海賊行為が行われるようになった。
 寛喜(かんぎ)3年(1231年)ごろ、「寄船」禁止の命令が鎌倉幕府より出された。「御成敗式目」(貞永《じょうえい》元年、1232年)にも、守護の仕事として海賊の取り締まりも明記される。
 関銭(せきぜに)……川や海の港に停泊した船から徴収した津料(停泊料)。船の大きさで決まる「帆別(ほべつ)」や、1回碇を下すごとに払う「碇公事(いかりくじ)」などの種類があった。
 
●海賊大将(p188)
 朝鮮の政治家・学者である申叔舟(シンシュクチュ)の著書『海東諸国紀』(1471年)に、日本から朝鮮に交易を求めてきた人々のリストがその出身地ごとに掲載されている。その数約180名。
 李王朝は、相手の身分に合わせて接待や通商の利便を与えた。そのため、日本での地位が高いことを誇示するために、「海賊大将」という肩書を用いた者が6人はいる。
  伊予州鎌田関海賊大将 源貞義
  備後州海賊大将 橈原左馬助源吉安
  安芸州海賊大将 藤原朝臣村上備中守国重
  周防州大畠太守海賊大将軍 源朝臣芸秀
  出雲州留関海賊大将 藤原朝臣義忠
  豊前州簑島海賊大将 玉野井藤原朝臣邦吉
 しかし、「海賊大将」たちの名前は、現在のところ日本の史料では見つかっていない。
 
●王直(p205)
 中国人倭寇の頭目である王直は、五島列島に拠点を持ち、島の領主五島氏とも結託していた。松浦氏からも、本拠地の平戸に住むことを許されていた。
 天文12年(1543年)、嵐に遭った王直の船が種子島に漂着。このとき、領主の種子島時尭(ときたか)に献上したのが西洋式鉄砲の伝来である。船にマカオから乗船していたポルトガル人がいたので、後の歴史では、ポルトガル人が鉄砲を伝えた、ということになった。
 
●警固衆(p212)
 警固衆(けいごしゅう)……室町時代中期、それまで「悪党」「海賊」と呼ばれ、荘園領主や守護に抵抗していた集団を、「警固衆」と呼ぶようになった。
 室町幕府が朝貢貿易を開始すると、遣明船の安全を確保するため、沿岸の守護に船の警固を命じる。「唐船警固」。守護は、分国内の沿岸領主にこの警固を命じる。その中に、「海賊衆」と呼ばれる勢力も入っていた。
 
●水軍(p264)
 熊野海賊の一派と見られる九鬼嘉隆は、織田信長に信頼され、志摩国一国を所領として与えられた。織田水軍の総大将としての地位を確立し、「海賊大名」と呼ばれるようになった。
 嘉隆は、それまで、戦いの都度寄せ集められていた海賊衆をひとつの組織に編成した。軍船を本船、武者船、弓船、鉄砲船、物見船、使番船、兵糧船の7種類に分類、それぞれの船に専門の担当を割り当てた。戦闘員と操船員も区別する。
 はじめて「水軍」と呼ぶにふさわしい、海の武士団を組織し、信長の天下統一を海から支えることになる。
 
●海賊禁止令(p287)
 天正16年(1588年)、豊臣秀吉によって「海賊禁止令」が出される。
 朝鮮出兵により、諸大名は海賊衆を集め、家臣に取り立てる。海賊から水軍へ。海の武士団として封建社会のなかに取り込まれる。
 
●松浦党(p294)
 松浦党は、秀吉の朝鮮出兵において、対馬の宗氏とともに朝鮮との交渉役を期待されて出兵。
 出征した3,000人のうち、2,000人が戦死したと伝えられている。
 しかし、最終的な帰国者は7,200人!
 戦いが長引く中、平戸から手柄を求めて後々参戦した者が多く出た。
 戦いのさなかにも、平戸と船が往復して戦利品や朝鮮人奴隷をたびたび持ち帰っていた。
 
(2018/4/12)KG
 
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